プラスチックと木製キットの融合!?糸を操るのはシリアル食品会社…【アメリカンカープラモ・クロニクル】第31回

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1971年:ミッション・ポジティブ・チェンジ

これまで「買収されました」というやや大雑把な表現で片づけられてきた事実であるが、1971年、ジョージ・トテフ率いるMPC(第4回第16回参照)は、アメリカのシリアル食品大手ゼネラル・ミルズによるコングロマリット戦略(多角化戦略)の一角に名をつらねた。

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あらゆる世情不安がアメリカを覆うなか、アメリカの大手シリアル企業各社(ゼネラル・ミルズ、ケロッグ、クエーカー・オーツ)は、すっかり成熟して成長の余地を見出しにくくなっていたコアビジネス(シリアル食品)以外の、発展の可能性に満ちた新しい市場に地歩を固めるべく、時をほぼ同じくして行動を開始した。

第二次世界大戦終結からちょうど四半世紀を経て、豊かに実をつける玩具市場に目をつけたゼネラル・ミルズにとって、ジョージ・トテフは非常に目立つ魅力的な人物だった。日の出の勢いにあったamt副社長の椅子を捨ててMPCを立ち上げ、生産拠点をカナダに構築するなどamtよりすぐれたシステムを作り上げて軌道に乗せ、amtを市場トップの座から追い落としてなお次々にヒットを飛ばす彼とゼネラル・ミルズの関係は、じつのところかなり早くからはじまっていた。

ペイント・バイ・ナンバーと”殺しの番号”
1950年代のアメリカを賑わせた人気のクラフトホビーに「ペイント・バイ・ナンバー」というものがあった。線で細かく区切られ、区画ごとに番号が割り振られた一見よくわからないキャンバスの上に、対応する番号の割り振られた付属の絵具を塗っていくと、ユーザーの絵画の素養・才能のあるなしにかかわらずプロ顔負けのみごとな絵画が描き上がるというものだった。

ペイント・バイ・ナンバーはプラモデルと同様、キット(=ひとつのテーマに必要な材料一式)の販売を前提としたホビーで、老若男女を問わず創造的な達成感が味わえる愉しみがひろく認知されるにつれてキットの人気は高まり、パイオニアと目されていたミシガン州デトロイトのパーマー・ペイント/クラフトマスター社では、一時は日に5万セットを連日生産しても需要に追いつかないほどの活況を呈し、このホビーの認知は市民から大統領・軍にまで及んで、デパートから空軍基地のPXに到るまで、これまでになかったクラフトホビー専門の棚を出現させるほどの普及ぶりをみせた。

1955年に一度破産を申請しながら経営者を変えて辛くも継続していたクラフトマスターが、やはり根深い資本力の弱さから、ペイント・バイ・ナンバー事業をゼネラル・ミルズに売却したのは1965年――このとき新クラフトマスター社の社長に就任したのが、誰あろうジョージ・トテフであった。

彼はMPCの社長をこれまでどおり務めつつ、一方では新しいリーダーとしてペイント・バイ・ナンバー事業が抱えるさまざまな問題に次々とメスを入れては解決し、事業内容の拡張と変更を敢然とおこなった。不思議なことだが、MPCの従業員にとってもクラフトマスターの従業員にとっても、ジョージ・トテフは「いつもうちの現場にいる社長」で、創意あふれる従業員が日々ひらめくアイデアのほとんどについて、彼はいつのまにか知悉しているのが常だったという。

ジョージ・トテフは、ホールディングカンパニー(持株会社)であるゼネラル・ミルズにとって、理想的なオペレーティングカンパニー(事業会社)のリーダーであった。業界と市場、そして生産にかかわる技術について知り尽くしており、彼の長年にわたるコアビジネスであるプラモデル事業において彼は迷わず正解を引き当てる。一方クラフトマスター/ペイント・バイ・ナンバー事業において彼は非常にアグレッシブな挑戦者であり、大胆かつ周到に新しいことに取り組んでいく。

この姿勢と続々あがる成果は、ゼネラル・ミルズのトップ、エドウィン・W・ローリングスから全幅の信頼を獲得し、MPCとクラフトマスターはジョージ・トテフを軸とした両輪となって、ゼネラル・ミルズの巨大な資本を背景に「なんでも思いどおりにやれる」体制をまたたく間にととのえてしまった。これこそがジョージ・トテフが長らく思い描いていた、アメリカンカープラモにとっての理想的環境だった。

アニュアルキット・ビジネスが斜陽化するや屋台骨のゆらいだamtとも、たった一度果敢なチャレンジに失敗しただけで方針を冷ややかに転換せざるをえなかったレベルとも(本連載第12回参照)、巨大な親会社に「スヌーピーをやれ」と無理難題をふっかけられて当惑するモノグラム(本連載第27回参照)とも違う、MPCが信念をもって突きすすめるようなドラッグストリップ的な環境の整備。

もちろん事業会社の為した仕事が持株会社にもたらしたシナジー(相乗効果)の程はいつか必ず審判の日を迎えることになるだろうが、それまで10年ならば10年、安定したアンリミテッド(無制限)な仕事が彼とそのチームには許されることになる。

振り返れば空前のヒット作となったMPCのモンキーモビルも、エアフィックス・バイ・クラフトマスター名義でイギリス内外を賑わせたジェームズ・ボンド・スパイカーのキット化も、ゼネラル・ミルズの巨大な後ろ盾を得ていたジョージ・トテフにしかできない仕事だった。

エアフィックスのジェームズ・ボンド・スパイカーについて、せっかくの機会なのでここで掘り下げておきたい。1966年のクリスマス・シーズンから1967年にかけて、イギリスの模型メーカー・エアフィックス名義でリリースされた1/24スケールのジェームズ・ボンド・スパイカーことアストン・マーティンDB5のプラモデルは、クラフトマスター/ジョージ・トテフによる受託設計・製造の産物だった可能性がきわめて高い。

映画『ゴールドフィンガー』がヒットした1964年時点で、ワンピースボディーを含むモダンなカープラモの設計ノウハウをもたなかったエアフィックスに代わり、クラフトマスター/MPCは最新のアメリカンカープラモにひけをとらない成型品を提供、イギリス・アメリカそれぞれでの流通を分担した――イギリス側の事情にあわせローカライズされた1/24スケールでの設計も手伝って、キットは長らく「エアフィックスの傑作」と語り継がれてきた。

エアフィックスのボンドカー/アストンマーティンDB5にはイギリス流通版とアメリカ流通版(画像のもの)が存在する。どちらもリリースは1966年末から1967年にかけて、ほぼ同時に市場に出回ったと思われるが、イギリス・エアフィックスとアメリカ・クラフトマスターそれぞれのカタログへの記載時期は、クラフトマスターつまりアメリカが先行している(1966年版)。

初版流通後の金型は両社の合意にのっとってクラフトマスター/MPCの管理下におかれたため、同様の経緯でキット化を果たしたトヨタ2000GTとともに、エアフィックス名義での再販はMPCによるアストン・マーティンDB6への金型改造後(007ギミックの排除後)に流通を分けるかたちでたった一度実現したにすぎなかった。

さらに詳しくは写真キャプションに譲ることとするが、クラフトマスターは同じリーダーを戴くMPCと主に海外のホビー企業とを窓口としてつなぎ、ときには両社のビジネスやスキルの非対称性を利用しながら収益を上げていった。エアフィックスのボンドカーはこうした事情を浮き彫りにする、もっとも興味深い「実例」と考えられる。

すべての人に創造力を!
ジョージ・トテフの生み出す製品はもはやアメリカンカープラモのせまい枠にとどまらず、万人のなかに眠る創造的可能性を揺り起こすためのきっかけとなる「キット」全般へとみるみる拡張されていった。次第にこれらはクロスオーバーしはじめ、精密なプラスチック成型品を信奉する自動車好きのギアヘッズと、手作りであることに価値を見出し、それらの品で家庭の一角を飾ることによろこびを覚えるクラフトホビー愛好家(手工芸ファンと言い換えてもいいだろう)の両者を橋渡しする製品すら生み出すようになった。

今回紹介するスティックス&スリックスはそのもっとも顕著な例で、1970年、クラフトマスター名義でリリースされたこのダイカット済み木製キット3タイトルは、ワイルドなホットロッド/ショーロッドとウッドクラフトを果敢に融合させたユニークなキットだった。

質感の高い木材をダイ(打ち抜き型)でプレカットし、そこに金型成型されクロームをかけられたエンジンとホイールを組み合わせる。この刺激的な車のデザインは、マテルでホットウィールを生み出した鬼才ハリー・ブラッドリーによるものだった。

これと同時期にMPCで開発がすすめられていたのがジンガーズ!(Zingers!)だった。スケールのまったく異なるカープラモの部品を巧みに組み合わせてできた非常に奇抜なデザインは、1969年のあるホットロッドショー会場でMPCが主催した模型コンテストの優勝作品が元になっていた。

1/32スケールのボディーに巨大な1/20スケールのエンジンとホイールの組み合わせ(MPCの公称によれば1/43と1/25の組み合わせ)がもたらすインパクトは、展示会場に当然のごとく居合わせたジョージ・トテフの目にとまり、ただちに製品化の交渉とプロモーションの計画が立てられた。

クラフトマスターのスティックス&スリックス、およびMPCのジンガーズには、ジョージ・トテフの豊富な人脈から選り抜かれた強力なバックアップが付けられ、ショーアップとフォトセッション用の自走しない「実車」が制作されて、まるで日本の山車のようにホットロッドショー会場を巡回しては、目新しい刺激を求める模型ファンを次々に「感染」させていった。とくにジンガーズはちょっとした社会現象・トレンドの様相をみせ、1960年代のエド・ロスらによる奇抜なカスタムショーカーの人気とはまた違った盛り上がりを記録した。

当時はまだ「カリカチュアカー」とやや生硬な呼び方をされていたが、わずかに先行したトム・ダニエル/モノグラムによるレッド・バロン、ハリー・ブラッドリーによるマテルのホットウィールズ、デイブ・ディールによるレベルのディールズ・ウィールズ、それに本連載第30回で軽くふれたジョン・ボゴシアンによるリル・シリーズらがMPCジンガーズとの相乗効果を発揮し、1960年代にはまだまだ散発的・実験的なアイデアに過ぎなかったものを一大セグメントへと成長させた。

以前と異なる重要なポイントは「実車が先行しない」「面白いアイデアはすべてに優先する」こと――デトロイトの自動車産業主導による実車と模型の主従関係は、この新しくて小さな「ショーロッド」というカウンターカルチャーの前にもろくも揺らぎはじめていた。アニュアルキットを中心としたオーセンティック・スケールモデリングにとうの昔に心を捧げてしまったマニア層はすっかり成熟し、市場としては成長の余地を失いつつあった。

ゼネラル・ミルズにとってのシリアル食品市場と同じことがここでは起こっていたわけで、チェリオス(ゼネラル・ミルズの代表的な甘いシリアル・ブランド)の色と形と味付けだけを変え続けても、ユーザーの心は離れていく。だからといって、チェリオスを廃番にすることは決してできないし、またするべきでもない。

シリアル食品とクラフトホビー、アニュアルキットとショーロッド、アメリカンカープラモとペイント・バイ・ナンバー、さまざまな両輪がクラス8のビッグ・リグとなって、長くむずかしい1970年代を突き進もうとしていた。

 

※今回も読者の方より画像の提供をいただきました。MPCの「スティックス&スリックス」全3種、「カバード・ワゴン」および「オア・ワゴン」、「Vロッド」と「ホンダATC90」は瀧上徳和さんの撮影です。エアフィックスの「アストンマーティンDB5」「アストンマーティンDB6」は隠善 礼さんの撮影です。
※今回、復刻版「ジンガーズ!」全8種の画像は、有限会社プラッツよりご提供いただきました。
以上、ありがとうございました。

写真:瀧上徳和、隠善 礼、畔蒜幸雄、秦 正史

この記事を書いた人

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1972年生まれ。日曜著述家、Twitterベースのホビー番組「バントウスペース」ホスト。造語「アメリカンカープラモ」の言い出しっぺにして、その探求がライフワーク。

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