「未来のエンジン」が未来を奪う!?気づかぬうちに直面していた運命の岐路…【アメリカンカープラモ・クロニクル】第15回

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1963年 ジョーハン、オルタナティブを往く

ジョーハンは1959年のアメリカンカープラモ・ビジネス参入からこの方、苦しい戦いを続けていた。この新しいホビーの趨勢を見守ろうと参戦をたった1年先送りにしたばかりに、製品仕様の決定権をamtとSMPに奪われ巻き返しもままならず、1960年代になってもなお地方都市からは「ジョーハンのプラモデルなど見たこともない」「この町じゃ手に入らない」と声があがる始末。

【画像56枚】精緻を極めたクライスラー・ターバインほか、ジョーハン製1963年型キットを見る!

人手も資金もライバル・amtに較べられては潤沢とはいかず、人心地つく余地があるとすればそれはクライスラーから得た手厚い信頼とその裏付けとなる確かな技術、ジョーハンの寄す処(よすが)はとにかくその一点に尽きた。
ここで苦境ジョーハンに大きな話が持ち込まれる。クライスラーが1950年代から多くの物量をつぎ込んで研究を重ねてついにまとめ上げたガスタービン・エンジン実験車、その宣伝用模型をぜひ作りたいというオファーが舞い込んだのだ。従来のガソリン・エンジンに較べ、ガスタービン・エンジンは往復式の機構や冷却系を持たず小型軽量、保守が簡単で高出力、大気汚染物質の排出はずっとわずかで、かつ多様な燃料を使用することができ、特異な騒音などの問題はあるにせよ「未来のエンジン」としての魅力はたいへんなものであった。

長らくこの内燃機関に執心し続けたクライスラーはいよいよこの年、4世代にわたる成熟を経た自社開発ガスタービン・エンジンA831に、フォードから引き抜いたばかりの新デザイナー、エルウッド・エンゲルが取りまとめた未来的な(それでいて前任のヴァージル・エクスナーのように過激ではない)スタイリングをまとわせて実験車を少数製造し、選ばれた消費者自身の手により実地試験をおこなうと大々的に宣伝した。貸与される個体はわずか50台に過ぎなかったが、このキャンペーンは途方もない倍率のロードテスト希望者をあつめ、市場の注目と話題を一夜にしてかっさらった。
かねてよりジョーハンの精密な模型づくりに厚い信頼をおいていたクライスラーは、同社に開発のための2万ドルを越える資金援助さえおこなって、1963年にまずアウトフィットだけのプロモーショナルモデルを間に合わせた。模型の開発はこれにとどまらず、現在では考えられないレベルの情報開示がジョーハンに対しておこなわれ、ガスタービン・エンジンまで含むフルディテールの組立式プラスチックモデルキットの開発にまで到った。

ドアのみならずエンジンフード、ストレージまで開閉可能、ジョーハンの持てる技術のすべてを集めて一切の妥協なく、あまりに精密なこのキットは、1965年の販売にこぎつけるまでたいへんな時間を要することになるものの、発表されるやいなや空前のセンセーションを巻き起こし、アメリカンカープラモ全体の方向性を根本的に変えてしまうほどのショックをもたらした。

キットの詳細はぜひオリジナルリリース版の写真を参照されたいが、この超精密化路線のインパクトはビジネスにおいて先行するamtの意識を変えてスチュードベーカー・アヴァンティの誕生を促し、次回本稿での紹介を予定している新会社・MPCのあり方をも変え、問題作’66コルベット・スティングレーを世に問う契機となる。
アメリカンカープラモの流れをつぶさに追う者にはジョーハンの一打逆転の大金星とも映るクライスラー・ターバイン(タービンカー)だが、その開発にはあまりに多くの時間と手間を要するがゆえ、同社に致命的ともいえる戦略上のミスを誘発する原因にもなった。1963年、ターバインの開発にこれまでとは比較にならないリソースを割かざる得なかったジョーハンは、通例のアニュアルキット展開に「廉売」の手法を採用してしまう。

諸刃の剣となった新展開、98セント・シリーズ
クライスラー300、キャデラック、プリマス・フューリー、オールズモビル・スターファイアの4車種(すべてコンバーチブル)を、当時の流行に逆らったカスタマイジングパーツなしの簡素な仕様にして、たったの98セントで発売したのだ。amtが通常1ドル49セントという余裕があるとはいえない価格設定に苦慮し、消費者に虎の子の2ドルを気前よく払わせるアイデアの案出に余念がない中、この廉売は緩慢な自殺といっても過言ではない悪手だった。

まだまだ年端のいかない消費者が圧倒的大多数を占めていたこの時代にあって、お小遣いのやりくり上1台98セントの「新車」は福音以外のなにものでもなかった反面、会社にとっては一時的な販売数の増加こそ見込めはしても長期的利益には決してつながらず、会社は次第に力を失っていく。また、一度下げてしまった価格をふたたび上げることはよほど斬新なアイデアの盛り込みにでも成功しない限り難しいことだった。

ジョーハンはこの範囲を限定した新展開を、ライバル・amtが規定したカスタマイズ路線との訣別として位置づけた。amtのように市井の実車カスタムビルダーと手を組んで製品にバラエティーを持たせるよりも、クライスラーとより深く結びついて製品をより精密化・先鋭化させる――当代きっての精密模型のプロフェッショナルとして身を起こしたジョーハン=ジョン・ハンリーにとっては、こうしたアプローチに舵を切るのはむしろ自然な成り行きだったのかもしれない。

ジョーハンはこの年の廉売モデル4タイトルを、amtと似た規格の共通箱におさめるのをやめ、1962年のレベルに似た頑丈な貼箱に収めて展開した。箱絵はタイトルごとにインディビジュアライズド(個別化)され、ボックストップには「98¢」のアイキャッチが大きくあしらわれた。

クライスラーとオールズ、実車メーカーの思惑が模型業界にも影響を
この1963年を最後に、オールズモビルはジョーハンとのプロモーション契約を終了させた。オールズモビルの模型化の権利は1964年次からamtに移ることになるが、これはクライスラーとの関係を深めるジョーハンをオールズ側が嫌ったとも噂されたが真相は定かではない。

しかしながらオールズは翌1964年にはいわゆるマッスルカー・ムーブメントのトリガーともなるオールズモビル4-4-2の登場を控えており、カスタマイズのみならずモータースポーツ・ホモロゲーション、ハイパフォーマンスカー路線にも冷淡だったジョーハンと袂を分かつ流れは必然だったともいえる。
いずれにせよこのオールズモビルとジョーハンの別離は「はじまり」に過ぎなかった。自動車産業各社(各ブランド)に伴走するアメリカンカープラモ・ビジネスはライセンスというカードを配られない者は参加できないゲームであり、amtはフォードとGMのカードを完全に手に入れ、ジョーハンにはクライスラーのカードが掌中に残った。

しかしカードはまさに勝負の時を迎えてみるまで伏せられているも同然で、どこにスペードのエースが隠れているのかは誰にもわからない。ジョーハンにとってクライスラー・ターバインはジョーカーのようなものであった。

 

※今回、キャデラック(2種)とオールズモビルのキットは、アメリカ車模型専門店FLEETWOOD(Tel.0774-32-1953)のご協力により撮影した。

photo:服部佳洋、秦 正史

この記事を書いた人

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1972年生まれ。日曜著述家、Twitterベースのホビー番組「バントウスペース」ホスト。造語「アメリカンカープラモ」の言い出しっぺにして、その探求がライフワーク。

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