中央との太いパイプを持つ村長の奔走で開通した道
太平洋に突き出た伊豆半島を古くから陸路でつないできたのは、内陸の修善寺から天城峠を越えていく下田街道だった。一方、駿河湾に面する西伊豆エリアは道路や鉄道の建設が進まず、「陸の孤島」と呼ばれるほど交通の便が悪い土地だった。そんな土地の人々の願いをかなえるため開かれたのが仁科峠である。
天城山に連なる稜線を越え、伊豆半島の西海岸と内陸の湯ヶ島温泉を結んでいるのが県道59号である。その標高900mの仁科峠に建つ立派な開通記念碑には次のような文字が刻まれている。
『嗚呼(ああ)険難漸(ようや)く開く』
いまでこそ人気のドライブルートになっている伊豆半島の西海岸だが、昔は「陸の孤島」と呼ばれるほど交通の便が悪かった。土肥から南に自動車道路(現在の国道136号)が通じたのは昭和7年(1932年)。これによって松崎町までは陸路で行き来ができるようになったものの、この道も海岸の断崖絶壁にへばりつくような悪路で、さらに戸田(へだ)から修善寺までは船原峠を越える険しい山道も待ち構えていた。当時は昔ながらの海路で行き来する方が遙かに便利で、快適だったのである。
「私が役所に勤め始めた頃も、沼津で会合があると一泊しなければならなかったんですよ」
こんな話を聞かせてくれたのは西伊豆町職員のOBで、現在は観光ボランティアを務める藤井駒一さん。今年71歳になる藤井さんが西伊豆町役場に就職したのは昭和39年(1964年)、前回の東京オリンピックの年である。
仁科村から下田街道(国道414号)が通る湯ヶ島温泉まで、最短距離でつなぐ県道が計画されたのは大正14年(1925年)。これが実現に移されたのは太平洋戦争後、堤傳平氏が仁科村の村長に就任してからのことだという。
「堤さんという方は、当時は珍しい東京帝国大学の出身で、中央との強いパイプがあったのです」
藤井さんによれば、当時の村の予算では仁科峠越えの道路を建設するのはとうてい無理。堤村長が中央官庁にさまざまな働きかけをした結果、昭和26年(1951年)に国有林の林道事業として工事がはじまり、その3年後に仁科峠を越える待望の新道が「漸く開く」ことになったというのである。
「観光村長」の異名も取った堤傳平氏は、当時の富士箱根国立公園に伊豆半島を編入する運動にも尽力した人物として知られる。この決定に際して、国から地元に出された条件のひとつが箱根エリアと伊豆エリアを結ぶ観光道路(伊豆スカイライン)の建設。現在、われわれが伊豆半島をドライブする時、海と山の変化に富んだ風景を楽しめるのも、この観光村長のおかげといえるかも知れない。
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