今解き明かされる、あのメーカーの謎!SMPとは何者だ!?【アメリカンカープラモ・クロニクル】第3回

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アルミからプラへ、その転身を担ったものは

組立式のアメリカンカープラモとその前身で完成品だったプロモーショナルモデル、このふたつは地続きだけれど、この世紀の転換に最初の一歩を踏み出したメーカーは実はふたつあった――今もその名を残すamtと、遠い昔に失われてしまったSMP。このどちらを欠いてもアメリカンカープラモの繁栄はなかった。好評連載第3回は、この両社が同じ軸の両輪となってアメリカンカープラモへと舵を切った、その軌跡をつぶさに追ってみたい。

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1957年の終わり、組立式のアメリカンカープラモをまず誕生させたのはamtという会社と、今は忘れ去られてしまったもうひとつの会社だった。

1948年の創立以来ずっとフォードと親しい間柄にあったamtは、正式な社名をアルミニウム・モデル・トイズといい、戦後たいへん安価かつ入手容易だった鋳造アルミニウムを素材に、本物の車と同じ塗装を施して顧客が手にとって眺められる縮尺1/25相当のサンプル・ミニチュアを作り上げ、アメリカ全土のフォード・ディーラーにとって有用な営業用ツールとして行き渡らせる新しい業態の嚆矢であった。

しかし、初手から懸念された塗装のコスト高と、それを救うあらかじめカラフルなプラスチックによる技術革新がすぐに同社をオール・プラスチック製のサンプル・ミニチュア会社に転身させた。このプラスチック化の波は、amtの求めるところに応じるかたちで外から到来した。1949年の創業ながら、当時すでにプラスチック金型成型の権威と目されていたエリック・エリクソン率いるデトロイト・プラスチック・プロダクツ社との交誼である。

amtの創業者であるウェスト・ギャロリーという人物はあくまで辣腕の弁護士であり、正統派の製造業者というよりはむしろ異業種間の連携をうまく取り持ってひとつの製品に取りまとめ、それを大きな需要のあるところに取り次ぐ術に長けていた。

一方、その技術に途方もない可能性を秘めながら、ビジネス上の機微に疎く小回りのきかないプラスチック製品製造業者にとっては、アイデアにあふれ契約事に強く、前例なき精密プラスチック製品の製造技術を求めているamtこそ、まさに理想のパートナーとすべき存在だった。デトロイト・プラスチック・プロダクツとamtは資本提携の下に、程なくしてSMP(スケール・モデル・プロダクツ)という新会社を設立するに到った。

後世の一部蒐集家の間ではそのあまりに似通った製品形態から、amtの別ブランドと誤解されがちなSMPだが、実際にはその資本の多くをamtに拠っただけの、あくまでデトロイト・プラスチック・プロダクツのミニチュア製造を専門とする子会社であって、製品の見た目上の相似はパッケージングと流通についてそのほとんどをamtに任せていたからに他ならなかった。

加速する、モデルカーのプラスチック化
アメリカンカープラモのはじまりとその前身たるプロモーショナルモデルを考えるとき、SMPにはもうひとつたいへん重要な側面があった。

1950年代当時、最新のモードと呼びうるだけの期待をあつめていた未来の新素材によるプラスチック製ミニチュアは、単価も安く大量生産にこれ以上ないほど適し、なおかつ色にいたるまで精巧に本物を模すことができる理想の販売促進用プロダクトとして登場し、これに興味を示さない自動車メーカーはほとんど存在しなかったが、たったひとつ、シボレーだけはこの導入に二の足を踏んでいた。

自社製品のセグメントと真っ向ぶつかるライバルであるフォードと、プロモーショナルモデル製造の第一人者であるamtの親密さをシボレーはひどく警戒したのである。出来のよいミニチュアをプロモーションに最適な時期に間に合うように製造するためには、はるか事前からの全面的な情報開示が不可欠となるが、市場で覇を相争う両社の最新機密が、ひとつ屋根の下、同じ照明を当てられることにシボレーは最後まで難色を示した。

結果、シボレーはSMPとプロモーショナルモデルの製造契約を締結した。SMP、すなわちデトロイト・プラスチック・プロダクツ/エリック・エリクソンはすでに(本物の)自動車部品製造・納入業者として、それもシボレーのビジネスにとって重要な鍵となる高価な金属部品の廉価なプラスチック化に多大な功績を果たしていたからだ。実績にまさる信頼はまだどこにもなかった。

わが国における生粋のアメリカンカープラモ・マニアの間でも、いまひとつその正体が掴めていなかったSMP。これはそのSMPによる1960年型シボレー・コルベアを仕上げた作例だ(制作:畔蒜幸雄)。

最後の大物シボレーがプラスチック製プロモーショナルモデルの世界に足を踏み入れたことで状況は一気に加速した。廉価でカラフル、そして最新の流行を全銘柄、遅れることなく入手できる状況がととのったことでこうしたミニチュアの需要は日ごとに高まり、模型メーカー各社は目のまわる忙しさとなった。自動車のスタイリングもまた、1950年代の終わりが見えてくるにつれていよいよ豪奢になっていった。

フォードは社運を賭けておびただしい資本をつぎ込んだ新ブランド・エドセルの準備に余念がなかったし、GM各社は当時旧弊なスタイルを固守するものと高をくくっていたクライスラーが先鋭的なデザイナーを登用したことにショックを受け、各デザイン部門に方向性の刷新を号令した。プロモーショナルモデルはそうした変化を何よりも早く忠実に反映し、消費者にわかりやすく提示する役割を担った。

今でこそミニチュア化という行為はミニチュアメーカー主導でとても自由かつ自発的、時代に縛られることもなく、ときには恣意的ですらあると思われているが、ことアメリカン・プロモーショナルモデルとその後裔・アメリカンカープラモにおいては決してそんなことはなかった。ミニチュアを企画・製品化すること自体が最終的には最新の自動車の実売につながるべきビジネスであり、あれがいいこれが欲しいといった玩具愛好者のわがままや「対象への愛」といった抽象的な思いのつけ入る隙はまったくなかったといっていい。

大人の複雑な思惑の交錯を、やはり大人が忙しく調整してまわり、技術ある大人がそれを黙々と形づくり、やっとのことで製品化を果たす。これはビジネスというものが趣味以上の情熱と献身を、大の大人に対して当たり前のように要求した時代の話だ。ここまで時は1956年、アメリカンカープラモ誕生のまさに前夜。

次回はアメリカンカープラモの誕生の最大の功を担ったもうひとりの重要人物と、あらかじめ完成された姿のプロモーショナルモデルが組立式のキットになった最大の要因について稿を割きたい。本当のクロニクルは、この人物の存在と仕事を語らずにはどうしても始めることができないのだ。

また、本稿ではあえて言及を避けたクライスラー各社のミニチュアと、それを手がけたもう一方の雄・ジョーハンについても別稿を用意する。

photo:羽田 洋、服部佳洋、畔蒜幸雄、illustration:秦 正史

この記事を書いた人

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1972年生まれ。日曜著述家、Twitterベースのホビー番組「バントウスペース」ホスト。造語「アメリカンカープラモ」の言い出しっぺにして、その探求がライフワーク。

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