「6 3/4 V8 OHV」。おおよそ60年前から基本構造は変えずに進化を続けるベントレー伝統のエンジンを搭載するミュルザンヌ。残念ながら、エンジンと共に2020年で生産を終えることは決定済みだ。その高性能バージョン「スピード」も、手にできる最後の機会は迫っている。
エンジン始動で広がるミュルザンヌワールド
「もし光に質量があるのなら」と言い出すと「アインシュタインの相対性理論か?」と思われるかもしれないが、そんな難しい話ではなく、あくまでも感覚的なことだ。
ミュルザンヌのインテリアを眺めると、クロームメッキされたパーツが放つ光の質量が一般的な自動車よりもはるかに“重く”感じる。そういうと、ほとんどの方が「なぜならメッキが分厚いから」と答えるだろうが、金属の表面で起きる光の反射がなぜ物体の厚みによって変化するのか、私には説明できない。でも、その違いは歴然としている。ベントレーが放つ輝きは重く、そして際立って質感が高い。
ミュルザンヌの室内を飾るフェイシアもまた、圧倒的な質量感を誇っている。実は、ミュルザンヌのウッドパーツはそのベースも木製で、そこに薄くスライスした銘木やカーボンなどを貼って徹底的に磨き上げ、インテリアパーツとして仕上げている。ちなみに、ミュルザンヌ以外のベントレーはアルミダイキャスト部品をベースに用いる。これは三次元的造形を可能にするための工夫だが、ここでも表面だけでなく内部に用いられる素材や仕立てによって質感が変わることを実感できる。
ミュルザンヌとは、つまりそんなクルマだ。表面に見えることは全体の2割か3割ほど。その奥底に隠された価値をはっきりと感じ取れるところに、ミュルザンヌの本当の魅力はある。
スタートボタンを押してエンジンをクランキングさせると、スルルルッとセルモーターが品のいい音を立てた後で、伝統あるV8エンジンは静かに回り始める。頑丈で精度の高いパーツがたっぷりとしたオイルに浸かってゆったりと回転している。そんな様が想像できるアイドリングだ。
ベントレーの製品は、たとえ恐ろしく豪華に作られていても、ただひたすらに快適さだけを追求したクルマではない。創業当時のベントレーがパワフルでバツグンの耐久性を誇っていたのと同じように、最新のベントレーも極めつけにラグジャリーなのにグランドツアラーとしての力強さを秘めている。たとえどんなに上質なスーツを着ていても、身体を鍛え上げたラグビー選手の筋肉が隠しきれないのと同じ理屈だ。
したがってミュルザンヌはハンドリングも乗り心地も、上質で心地いい手触りのその奥に、しっかりと芯のようなものが感じられる。そしてこれこそが、ワインディングロードやハイウェイを延々と走るときの確かな礎となってドライバーを下支えするのである。
そんなミュルザンヌが間もなくモデルライフを閉じる。現行モデルのデビューが2009年だからやむを得ない話だが、現在クルー工場でハンドビルドされる唯一のボディがミュルザンヌであることを考えると、ひとつの時代が幕を閉じるようで、残念で仕方がない。同様にしてミュルザンヌに搭載される6 3/4リッターのV8エンジンも時代の表舞台から去ろうとしている。このエンジンは1959年にデビューして以来、実に60年間にもわたり改良に改良を重ねて生き長らえてきたユニット。前述のとおり、効率化を優先した最新エンジンとは別物の“豊かさ”を感じさせてくれるのも、その長い歴史がなせる技といえる。しかも、コンチネンタルGT V8が2012年にデビューするまで、これがベントレーを支える唯一のV8エンジンだったのだから驚かざるを得ない。
しかし、工業製品としてのミュルザンヌはその使命を終えても、ミュルザンヌを作り続けてきた遺伝子は今後も生き続ける。ベントレーは傘下のマリナーとともに少量生産のコーチビルディング事業を再興させると発表。その第一弾として今年バカラルを発表した。優れたパワープラントを生み出すノウハウは今後登場する電動化モデルに生かされるだろう。そうした長い伝統に裏打ちされた製品こそ、“フライングB”を捧げるに相応しい存在なのである。
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