Bigなキャンペーン、Bigなキット!amtの大いなる賭け、レベルの帰還、そして…【アメリカンカープラモ・クロニクル】第29回

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1969年:ショー・アンド・ゴーン

1969年、amtの手にシボレーのアニュアル・ライセンスが帰ってきた。1967年までとは異なり、ライバルのMPCと競合するかたちではあったものの、キット設計のための自動車メーカー公式一次資料開示の回復はamtにとってなによりも明るく、ほっと人心地つく材料となった。

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amtはこの年のアニュアルキット(Yナンバーキット)のボックストップに「公式工場図面にもとづき制作されました(Reproduced from OFFICIAL Factory Prints)」の一文を大きく掲げ、自動車メーカーの公式図面(ブループリント)を青いインクごとそっくり模したデザイン・フォーマットの組立説明書を用意して、これを全面的にアピールした。

前年(本連載第27回参照)に味噌をつけたamtの失地回復への意志はこれだけでなみなみならぬものをユーザーに感じさせたが、同社はこの年、オール・アメリカン・ショー・アンド・ゴーを名乗るこれまで例のないプロモーション・キャンペーンを展開し、だんだんと縮退の兆しを色濃くする市場の「外」から、あらためて注目を集めようとした。

賞品総額5万ドルをかけた大々的な懸賞キャンペーンである。応募にあたってはamt商品を購入したかどうかは不問とされ、当選者にはRCA製14インチ・カラーテレビやレコード・プレーヤー、パナソニック製8トラック・ステレオ・カセットテープ・プレーヤーや可搬型レコーダー、マーレー製エリミネーター自転車、フリートウッド製卓球台、ポラロイド製スウィンガー・カメラ、タイメックス製スキンダイバー・ウォッチ、クレーガー製レーシング・ヘルメット、ハースト製レーシング・ジャケット、マクレガー製ベースボール・グローブ、ホーナー製ハーモニカ、木製チェストに収められたエグザクト製ナイフセット、『カーモデル・マガジン』や『モデルカー・サイエンス』といった模型雑誌1年分、キャピトル製LPレコード1,000タイトルからランダムにいずれかひとつ、amtのカープラモ10,000個の山からランダムにいずれかひとつ、残念賞にもBICのボールペンなどが振る舞われた。

エントリーの郵送先(おなじみのamt本社ではなくカリフォルニアの私書箱だった)が明記された専用の応募用紙はamt製品を扱う小売店に備え付けで、用紙をもらいにいけばそこにはamtの新しいプラモデルが小山をなして待ち構えており、笑顔でよくしゃべる店主から手厚い「もてなし」を受ける……そんなキャンペーンだった。

本連載第28回でその意義を取り上げたTナンバーキットの異常とも思えるほどおびただしい点数は、このキャンペーンを成功に導くための「仕掛け」だった。たとえ中身に新味がなくとも、ぱっと見新しい商品の山を作り上げて売り場のムードを飽和させ、制圧する。

小売店にはリングバインダーに閉じられる形式のカラフルな、客にも見せられる製品仕様書を配布し、キャンペーン下で一に推すべき商品はどれか、各商品のアピールポイントはどこか、つい5分前に模型店主におさまった者でも説明に窮しないような準備をととのえる。クリスマス商戦の時期は避け、1969年9月30日をもってキャンペーンはきっぱり終了させる。繰り返しになるが、懸賞の応募はamt製品を買わずともよい。

amt二代目社長、トム・ギャノン(同じく第27回参照)の面目躍如たる采配――これまでこつこつ築き上げてきたamtの製品群は、旧くなりこそすれ駄物などないと信ずればこその、彼らしい電撃作戦であった。

大きな賭け、ビッグリグのモデル化
このキャンペーンの賑わいに、amtはひとつの賭けを忍び込ませた。商品単価5ドルに及ぶ高額な、巨大なセミトラック・キットの市場投入だった。

第一弾はピータービルト359、「カリフォルニア・ホーラー」――アニュアルキットの2.5倍もの価格でこのセミトラックを手にしたユーザーは、たとえもう5ドルを支払うことになっても必然的に牽引すべきセミトレーラー(荷台部分)を欲し、無限のバリエーションに到るビッグリグ(セミトラック+セミトレーラーを組み合わせた完成形)をすぐに夢みるようになるだろう――これはamtが試行錯誤の末にたどり着いたひとつの結論であり、amtは手ごたえさえあればすぐにもセミトラック/セミトレーラーのラインナップを拡充させる構えをととのえていた

もしこの精密なオーバー・ザ・ロード・トラックのキット化が1969年に断行されなければ、アメリカンカープラモ趣味そのものが一過性のフラフープ熱のようなものに終わっていたかもしれない。発売はあくまでセミトラックのみで、牽引すべき貨物のキットはしばらく登場しなかった。キット化発表時のこのイラストが、実際に発売された製品とは異なる、359登場より前のナロー・ラジエーターを装着したモデルであることに注目。つまりこの絵は359ではなく、おそらく351あたりである。

「世界最大のモデルカー・マニュファクチュア」を自ら名乗るamtにしかできない、ディケイドの終わりにふさわしいこの「挑戦」は、ゆっくりと時間をかけ、確実にamtのドル箱へと成長していくことになる。大きなアメリカントラックがホビー市場の一角を泰然と占める現在からすれば、1969年はアメリカの州間長距離輸送の花形がついにプラモ化された記念すべき年になった。

本連載では取り上げなかったが、MPCもまた1967年にポンティアックの独占的ライセンスと社長ジョージ・トテフの豊富な人脈を背景に、「テレビを持っているアメリカ人なら全員知っている」といわれたザ・モンキーズのポンティアックGTOカスタム「モンキーモビル」をキット化して推定500万個ともいわれる大ヒットを記録して以来、マス・マーケティングへの取り組みをいっそう本格化させていた。

MPCのアプローチはいわば浸透作戦で、大ヒットを生み出すマス・メディア(この時代であればテレビ)の現場にジョージ・トテフ自身が深く入り込み、番組企画制作者・自動車メーカー・カスタムビルダーの関係を仲介し、話を盛り上げ、そこから生まれたアイテム(多くは奇抜なカスタムカー)とその商品化権を誕生の瞬間から独占する手法だった。

例をひけば、シチュエーション・コメディ番組『ザ・モンキーズ』の企画制作局であるNBCと、カスタムビルダーのディーン・ジェフリーズ、それにポンティアックの広告代理店であるマクマナス、ジョン&アダムズをジョージ・トテフが結びつけることで、モンキーモビルとそのMPC製キットは誕生した。

ちなみにこのとき、ポンティアック側の代表として参与していたマクマナス、ジョン&アダムズの担当者ジム・ワンガーズは、あまりにもMPCのペースですすむ状況にすっかり呑まれてしまい、ポンティアックGTOの面影をほとんど残さない仕上がりとなってしまったモンキーモビルの姿を槍玉にあげた会社から「これは本当に(ポンティアックの)販促になるのかね?」と厳しい詰問を受け、あやうく解雇の憂き目に遭うところだった。

ワンガーズの首の皮は、1968年式ポンティアックGTOの広告キャンペーンをシリアルフーズの最大手ケロッグとのあいだで締結することによって辛くもつながったが、ともあれこうした異業種間の思惑が激しく行き交う最前線に、MPCのジョージ・トテフはひとりの有能なコーディネーターとして介在していたのだった。

ジョーハンの窮状と還ってきたレベル
amtからもMPCからも、これまでどおりアニュアルキットはリリースされた。しかしそのビジネスモデルは確実に陳腐化しており、模型メーカー各社は停滞する状況を打破するため、ありとあらゆることを試みた。よくいえば模型一途、悪くいえばそうした腹芸の才覚にめぐまれなかったジョーハンの状況は、1970年代を前にいよいよ差し迫ったものになっていった

amtパッケージをまとったジョーハン金型のキットはこの年もリリースされ、会社の命脈を保つだけの売上こそものにしたものの、ジョーハンはあまりにも「素晴らしい腕をもった無愛想な職人」に過ぎた。ジョーハンは1969年、長らくキット化を続けてきたクライスラー300の更新を断念した。クライスラーがこの年式から導入したフューサラージ・スタイリングのために新たな金型を起こす力が、もはやジョーハンには残されていなかった。

こうした状況のなか、レベルがひょっこりとアニュアルキット市場に戻ってきた。本連載第12回で紹介したように、1962年に大掛かりなアニュアルキット参入を試みて惨憺たる失敗に終わったレベルは、フォード・マスタングをきっかけとして充分に軟化したライセンス状況をうまく捉え、シリーズ・ラインナップを構成しない、ライセンスの年次契約更新を前提としないただの一キットとして、最新のマスタングをキット化した。

1962年という早い段階にアニュアルキット・ビジネスで大やけどを負ったレベルの姿勢は、文字どおりクールなものだった。マスタングはまだ売れている、ライセンスは取れそうだ、よしやろう――航空機、艦船、プラモデルのあらゆるセグメントになにかしら自社商品を持ち、ライセンスという点に特異性があるカープラモに対しては一歩引いた見方をとるレベルは、いまの総合スケールモデル・メーカーの典型的なあり方にすっかり落ち着いていた。

こうした境地に到るまでにレベルとそのカープラモがたどった経緯は、また別の機会をとらえ、特別編として本連載でも一度取り上げたいと考えている)

組立式の自動車模型が趣味と産業の両面から隆盛をきわめた十年が終わろうとしていた。1956年には600万ドル程度だったミニチュアカーの市場規模は、アメリカンカープラモの登場によって1964年には1億5千万ドルを超えるところまで到達した。この時代を経験した多くの者が異口同音に語るように、1960年代はまさに夢の時代――先々にわたって何度も振り返られるユートピアの時代だった。

そしてそのユートピアは、このホビーをいつまでも諦めようとしない、諦めきれない者たちを少なからず生み出した。1970年代、そうした「遺児たち」の戦いが静かに幕をあけた。

 

※今回、復刻版「カリフォルニア・ホーラー(ハウラー)ピータービルト359」の画像は、有限会社プラッツよりご提供いただいた。
※「1969シェベル・エルカミーノ」「モンキーモビル」「’69マスタング」(レベル)は、アメリカ車模型専門店FLEETWOOD(Tel.0774-32-1953)のご協力をいただき撮影した。
※今回も読者の方より画像の提供をいただいた。「トロネード」(ジョーハン)、「1969シェビーSS427」「1969ビュイック・リヴィエラ」は渡邉準一さんの撮影です。
以上、ありがとうございました。

写真:羽田 洋、畔蒜幸雄、秦 正史、渡邉準一

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