対抗馬に変わり種、ポニーカー揃い踏み!そして微妙なパワーバランスの変化も…【アメリカンカープラモ・クロニクル】第26回

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1967年、3人のジョン

本連載は第25回において、1967年のアメリカンカープラモの状況について「モデルチェンジの波がかなりまとまって押し寄せた」と書いた。これはどちらかというと「とにかく金型を一から作り直さなくてはいけない」という模型メーカーの視点からの物言いだったことをここであらためて認めておかなくてはならない。自動車メーカーからの視点からすれば、1967年という年は既存製品のモデルチェンジ以上に、まったくのニューモデル・ラッシュの年であった。

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フォード・マスタングの破格の大成功から3年、それに続けとばかりにマーキュリー・クーガー、シボレー・カマロ、そしてやや遅れてポンティアック・ファイアバードがデビューした。世に云うポニーカーの熾烈な戦いである。先行する逃げ馬、マスタングは市場でのトップの座を維持すべく初のモデルチェンジをおこない、より筋肉質なスタイリングを得た。

差し馬の位置につけていたプリマス・バラクーダも大きくモデルチェンジしヴァリアントの影響から完全に脱却、デビュー時のアイデンティティーだったリアのラップアラウンド・ガラスを捨てて印象をタイトに刷新した。

人気のトップをコンパクトな新型車が争い、パワフルなインターミディエイト・スーパーカー(マッスルカー)がそれに続く特異な燃え上がりをみせる市況に際し、誕生以来ずっとフルサイズカーを中心に据えたラインナップを構築し、ひとつ1ドル半の廉価をついこのあいだまで維持しつつ金型改修というやりくりを続けてきた模型メーカーが軒並み窮地に立たされたことは皮肉というほかない。

加えて本連載第21回でもふれたように、ニューモデルの誕生はキット化ライセンスが流動する節目になりがちで、さらに時代はマスタングやコルベットのような「人気者」について二重ライセンスによる競作もありうる状況を迎えていた。

唯一誕生からまだ日の浅いMPCにとっては、この状況はチャンスだった。なにより彼らの手許には、持て余した旧アニュアルキット金型という厄介ものが存在しなかった。身軽なMPCはポンティアックの独占ライセンスと、amtと競合するコルベット、マスタング、それに先進的な前輪駆動システムの搭載で話題をさらったオールズモビル・トロネードを加えてラインナップをととのえた。

オールズモビル・トロネードのキット化は、amt・MPC・ジョーハンの3社が三つ巴となるこれまでにない様相をみせた。amtとジョーハンのトロネードは同じ金型で、設計・施工はジョーハン、パッケージングと流通はamtがおこなうものの、ジョーハンの独自パッケージが1966年のうちに年式表記なしで先行するという複雑な形態が採られた。

MPCはオリジナル金型であるが、この年以降の製品の変遷を参照すると、特殊なスポットライセンスにもとづく製品化であった可能性が高い。いずれにせよきわめて挑戦的な機構を持つこの特異な前輪駆動車が、ライセンサーであるオールズモビルの異例づくめの采配によってキット化を果たしたことは疑いようもない。

ここで重要なのは、その俊英らしい模型の開発能力に反して、長らく販売不振にあえいでいたジョーハンがここへきてamtと協力関係を結び、流通上の問題やライセンスの融通に解決の道筋をつけたことだった。amtもまたちょうど経営トップの交代があり、これまでの事業プランを厳しく見直した時期だったこともジョーハンには幸いした。

オールズモビルを巡ってのあれこれ
もうひとつ興味深い動きがオールズモビルをめぐってこの年に発生している。ときに実験的に過ぎるとも評される先鋭のエンジニアリングを身上としていたオールズモビルは、GM内でユニタイズド・パワー・パッケージと呼称される先進的前輪駆動ユニットを7年におよぶ開発期間をかけてみごと実用化したにもかかわらず、マスコミからは新機構の耐久性・安全性への懸念が数多く寄せられた。

そうした懸念を払拭するためにオールズモビルは、同ユニットをフロントとリア両方に据えまさかの4輪駆動とし、パワフルなエンジンも2基、当然シフトレバーもアクセルペダルも計器類もすべてふたつずつある怪物的エキジビション・ドラッグマシン、ハースト・ヘアリー・オールズを作り上げて大衆を度肝を抜くパフォーマンス・サーキットをおこない、この異端児のキット化権をアニュアルキット3社のいずれでもないモノグラムに許諾した。

シカゴでの創業以来、ライセンス(つまり、お金のやりとり)の発生する仕事にじつはあまり積極的ではなかったモノグラムとのあいだにこうした話がまとまること自体、かなり異例のことであった。

肝心のキットを今回写真でご紹介できず残念だが、モノグラムの1/24ハースト・ヘアリー・オールズは、1990年代後半にAMTアーテルとリンドバーグ/クラフトハウスがそれぞれ’66・’67のオールズモビル442をキット化するまで約30年の長きにわたり、このピリオドの各種オールズモビルを再現するために必要な唯一のベースキットとして重宝されることとなった。

またこのキット化を契機にモノグラムは、後世のわれわれがまず思い浮かべる「オーセンティックな精密スケールモデル・メーカー、モノグラム」という新しいイメージへと徐々に接近していくこととなる。

アメリカンカープラモの変遷を俯瞰すると、オールズモビルのキットは十指で数えるほどしか存在しない。振り返ればアニュアルキット発祥の1958年からオールズモビルは他のGM系ブランドとは足並みが揃わず、1959年になってジョーハンから初のキット化を果たしていることからも、なにごとにつけて附和雷同を是としないオールズモビル独自の気風が垣間見えるようだ。

既存のルールを破ることも辞さず、華やかなスポットライトを浴びることにどこか執心しがちなポンティアックのジョン・デロリアンとはことごとく対照的に、オールズモビルのゼネラルマネージャー、ジョン・ベルツは寡黙な終身エンジニアであり、派手なプロモーションよりも製品それ自体がすべてを語るべきだとの信念を持っていたとされるが、自社製品の模型化にあたってもまた独自のポリシーが存在したようで、amtよりむしろジョーハンのものづくりの姿勢――クライスラー・ターバインに顕著な高忠実度再現と詳細な作り込みや、創業者ジョン・ハンリー自身の機械工学の素養など――にもともと強く共感するところがあったのではとの推論にも一定の説得力が感じられる。

同様にオールズからモノグラムへと白羽の矢が立った背景にも、とかく政治的なプロモーショナルモデル業界とは一線を画しつつ確かな技術のあるところにハースト・ヘアリー・オールズの再現をまかせたいとの思惑があったとすれば、これもまたオールズらしいと合点のいくところだ。

勃興期の怒濤の勢いが約10年のあいだにやや衰えたとはいえ、1967年のアメリカンカープラモ/アニュアルキットの状況には、ビジネスでありながらこうした実験的な試みがなされる「余白」がまだあった。デトロイト・アイアン(すなわち自動車メーカー)とデトロイト・プラスチック(つまり模型メーカー)の距離は、政治的な駆け引きが激しく飛びかいつつもまだまだ近くて親密であり、まさしくここにそうした余白が存在した。

1967年:余白のあった最後の年…
フォード・マスタングが仕掛けたポニーカー・ウォー、ポンティアックGTOが仕掛けたスーパーカー/マッスルカー・ウォーがいよいよ熾烈をきわめるにつれて、こうした豊かな余白は小さくなり、いつのまにか消えてしまう。企業に観念的な豊かさではなく具体的な富をもたらすのは、つねにエクスペリメンタルよりポピュラー、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドよりモンキーズなのだから。

1967年も半ば、amtはフォード・マスタング・マッハワン(マックワン)コンセプトという、今ではすっかり存在を忘れ去られてしまったエクスペリメンタルな「習作」をひっそりキット化していた。デザイナーのレンダリングをそのまま、量産責任者の具申など一切介さずに実体化したようなこの特殊なマスタングをamtは、事後の使いまわしを許さない一回性の金型になるだろうことも厭わず、新規に作り起こされたボディー、ワンオフのホイールなどを贅沢に投入してかなり忠実にキット化した。

模型化にフォードの強い意向があったテーマとも思えず、どちらかといえば「いまはマスタングであればなんでもいける」「インテリアは既存のマスタングから流用できる」と踏んだamtがフォードの控えの間からむりやりひっぱり出してもうひと稼ぎにおよんだ変わり種に過ぎなかったともいえるが、今ではディアボーンの歴史アーカイブにわずか数葉の写真が残されるのみのこの赤いマスタングにとって、amtのこのキットだけが唯一無二の、写真よりはるかに克明な「存在の証明」となってしまった。

実車は1968年にフロントマスクを改造されてオートショーの出し物として使われ、amtの金型もオートライト・スペシャル・ハイ-パー・マスタング、スーパースタング・ファニーカー、アイアンホースをそれぞれ名乗るキットとして1970年代まで転用を繰り返したが、再販を重ねるごとに架空のアイテムの度合いを増し、まがりなりにも実在した車に忠実なキットというシャープネスは失われていった。

マスタング・マッハワン・コンセプトのキットの変遷はどこか象徴的だ。模型メーカーと自動車メーカーとの距離が近いゆえに至極当たり前であった「まず実車ありき」の前提が時代とともにゆらぎ、ライセンスが窮屈に感じられて、いかにも売れそうな(と模型メーカーが机上で思いつく)架空のアイテムの作出が増えていく。

ファンは逆に、彼らが熱心であればあるほど、日々実車に対する知見を深め、欲しいアイテムのストライクゾーンをせばめて先鋭化していく。気がつけば、先に述べたような「余白」はどこにも見当たらなくなっている。

1950年代アメリカに満ちあふれていた無限の楽観主義がみるみる翳りをみせたように、アメリカン・オーセンティック・スケールモデルにも黄昏が訪れようとしていた。

写真:畔蒜幸雄、羽田 洋

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