誰もが知る有名なメーカーが出していたのに、日本では知られていないクルマを紹介する連載、【知られざるクルマ】。前回は、海外で活躍した(する)軽自動車シリーズの第一弾【スズキの商用車編】をお送りした。
【知られざるクルマ】Vol.20 海外で活躍した軽自動車(1)スズキの商用車編……ベドフォード・ラスカル、マルチ・スズキ・オムニ、デーウ・ダマスほか
コンパクトで機能性を考え抜かれた軽商用車は、古くから多くの国で生産され、活躍を続けている。スズキの軽トラックとバンが「こんなにいろいろな国で!?」と思うほどに、現地の生活に溶け込んでいることは、第一弾でお送りした通りである。そこで第二弾の【ダイハツの商用車編】では、海外で生産される「ハイゼット」を中心に、国ごとの事例を見ていきたい。
【イタリア】名スクーター「ベスパ」の会社が生産! 「ピアッジオ・ポーター」
軽商用車の海外進出といえばアジア圏が思い浮かぶが、小型車作りに長けている欧州においては、軽自動車の絶対的な展開数は多くない。しかし、中には成功作といえる存在がある。それが、ダイハツとイタリアの「ピアッジオ」の提携によって生まれた「ピアッジオ・ポーター(Piaggio Porter)」である。
ピアッジオとは、世界第4位の巨大バイクメーカー。あの有名なスクーター「ベスパ」を作っている会社だ。傘下には7つのブランドがあり、レースの世界でも活躍する「アプリリア」、伝統のVツインエンジンが魅力的な「モト・グッツィ」をも擁する。バイク以外にも3輪トラック「アペ(Ape)」を生産するが、本格的な4輪のコマーシャル・ビークルは、このポーターが担当している。
ポーターの登場は1992年。元になったのは、日本で1986年に登場した7代目(S80系)である。日本では現在、ハイゼットは10代目まで進んでいるが、ポーターはエンジンの載せ替えやフロントの大整形など、幾多の改良を繰り返しながら2021年まで販売された。最終的に積まれたエンジンは、ダイハツの1.3Lガソリンと、ロンバルディーニ製1.4Lディーゼルだった。
【インドネシア】多種多様なハイゼットを生産
インドネシアでは、1981年デビューの6代目・S65系ハイゼット(眉毛ハイゼット)の現地生産を、1982年からスタート。1000ccエンジンを搭載していたインドネシア仕様では、日本のハイゼットに準ずる「S65型」のほか、「S70型」と呼ばれるオリジナルモデルも作られていた。カクカクした独特の車体は現地の設計によるもので、「アンコット」と呼ばれる乗合タクシーで多用された。
このほかにもインドネシアでは、ハイゼットをベースにした1BOX車があった。それが「ゼブラ(Zebra)」で、1986年にS80系ハイゼットの車体を拡大・1.3Lエンジンを積んでデビューした。型式は「S88/S89型」。1995年には8代目ハイゼット(S100系)を下敷きにした2代目にフルモデルチェンジしたが、外観は完全オリジナルのなめらかなデザインを採用した。形式は「S90系」が付与されていた。2008年頃まで生産され、「グランマックス」(後述)に後を引き継いだ。
インドネシアでダイハツ車を生産する「アストラ・ダイハツ」は、S60系ハイゼットの後も引き続き8代目のS80系を作っていた。それを置き換えるため、2008年になって1.5Lクラスの「グランマックス」(S400系)が登場。日本にも「トヨタ・ライトエース/タウンエース」バン・トラックとして輸入が行われてきたが、2020年以降はタウンエースのみが販売される。
その一方でアストラ・ダイハツは、10代目(現行型・S500系)ハイゼット・トラックに1Lエンジンを積み、「ハイマックス(Hi-max)」として2016年から生産を開始した。しかしハイマックスは、2020年にわずか4年でカタログ落ちしてしまった。車体が小さかったため販売が伸びなかったようで、自社内競合車でもあったグランマックスのピックアップが実質的な後継モデルとなった。形式は「S501型」だった。
【中国】国民車的な存在!? タクシーとして親しまれた「天津・華利TJ110」
スズキ・キャリイとその派生車種、さらには祖をキャリイとする中国開発・生産車が数知れないほど存在するのは、前回お届したとおり。ライバルであるハイゼットも同様で、中国で作られ、独自の改良・展開が行われた。始まりは1980年代。ダイハツと技術提携を結んだ「天津汽車(ティエンジン・チィーチゥー)」は、1984年から6代目・S65系「眉毛ハイゼット」の生産を始めたことによる。当初は日本製部品が多かったが、次第に現地生産比率を上げていった。
天津ダイハツ(大発)のハイゼット「華利(フゥアリー)」には、バン・トラック両方を設定。特にバンモデルの「TJ110」は、1980年代後半以降になってタクシー用に供給が始まり、1990年代を通じて「面的(ミェンディー)」と呼ばれ親しまれた。面的とは「パン=面包(ミェンパオ)」から来た言葉で、1BOX型タクシーを示す。タクシーがのカラーが黄色く塗られていたことから、「黄虫」とも呼ばれていたという。乗車賃も安く、自転車などの大きな荷物も積めるため、各都市の市民に愛されていたが、排出ガス規制によって、1990年代末から大都市で、面的の置き換えがスタート。天津市でも2005年頃には街からその姿をすべて消してしまった。
【韓国】韓国から世界で輸出された「アジア(キア)・タウナー」
キヤリイの韓国版「デーウ・ダマス」は、本家に負けず劣らずの国際戦略車だったが、7代目ハイゼットを韓国で1990年代に生産した「アジア・タウナー(Asia Towner)」も、韓国内のみならず南米などにも輸出・販売が行われたほか、1994年から1998年まではブラジルでも作られた。アジア(亜細亜)はキア(起亜)子会社の商用車メーカーだったが、1999年にヒュンダイ(現代)がキアを買収した際、アジアもキアに含まれてブランドを終了している。
【アメリカ】意外や意外! 北米でも売っていた、ダイハツの軽商用車
ラストは、最も軽自動車と縁が遠そうな、アメリカ市場でのダイハツ軽商用車を見てみたい。昨今では日本の軽トラックがブームになっているアメリカだが、正規の製品としては、さすがに彼の地では小さすぎるためか、過去販売された車種はごくわずかだった。
まず一つ目は、歴史をずっと遡って、オート三輪「ミゼット」まで遡ろう。1957年デビューのミゼット(DK型)は、バーハンドルで一人乗り・ヘッドライトも一つ、キャビン中央のエンジンカバーにまたがって乗るという、バイクに近い設計だった。
だが1959年になって、丸ハンドル・2人乗り・二灯式ヘッドライト・ドア付き密閉キャビンを持つ北米向け仕様「MPA型」を発表。「トリモービル(Trimobil)」と名付けて全米各地の自動車ショーで展示され、好評を得たという。そして同年、これを日本向けに改めた「MP2型」を日本市場に投入。その後「MP3型」「MP4型」を経て、決定版「MP5型」へと発展し、オート三輪の王道車のひとつとして、不動の人気を獲得したのはご承知のとおりである。
二つ目は、アメリカ向けハイゼットだ。1960年に発売後、2020年で60周年を迎えたハイゼットは、軽自動車における最も歴史が長いクルマだ。しかし、アメリカにはただ一代、しかも数年のみ輸出されたにとどまる。
アメリカの地を正規販売車として踏んだハイゼットは、7代目・S80系である。ただし厳密には、公道を走ることができない「農機」「ゴルフカート」などのクローズド・ユースの乗り物扱いだった。そのため、日本の果樹園で見られるような屋根とドアがない仕様や、ゴルフ場で用いられる、多人数が乗れてドアがないカート仕様もカタログに掲載していたほどだ。しかし、1992年にダイハツの北米市場撤退により、アメリカ向けハイゼットの輸出も終了してしまった。
我々には身近な存在であるハイゼット、そしてハイゼットの系譜を継ぐモデルが、思わぬ国で働いており、しかも地元に愛されていることを知ると、やはり嬉しいものだ。そこで懲りずに次の記事でも、「海外で活躍した軽自動車」シリーズの第三弾として「ホンダ・三菱編」をお送りしてしまおうと思う(汗)。
次回もどうぞお楽しみに。