幕末の志士・吉田松陰が最後に自分の足で越えた峠
下田の南、国道136号から県道16号に少し入ったところにある弓ヶ浜。
東海道・三島宿の三嶋大社大鳥居前を起点に、天城峠を越えて下田へと至るかつての下田街道は、人の行き来の少ない静かな脇街道だったらしい。それがにわかに騒がしくなっていったのは幕末の時代である。
ペリー提督率いる黒船が浦賀沖に現れたのは嘉永6年(1853年)のこと。翌年、再び日本に来航したペリー艦隊は、下田と箱舘(現在の函館)を開港させる日米和親条約を幕府との間に結ぶ。その2年後にはアメリカの初代駐日総領事、タウンゼント・ハリスが下田に上陸し、玉泉寺に総領事館を開設する。こうして伊豆半島南端の小さな港町が開国の表舞台となっていったのだ。
河津川の両岸は早咲きの桜の名所。例年2月下旬頃から見頃を迎える。
その頃、警備に当たる役人や兵士たちに混じって、ひそかに天城峠を越えたのが、のちに明治維新の精神的指導者として名を上げる長州の吉田松陰だった。
安政元年(1854年)、外国留学の意志を固めた松陰は、同藩出身の金子重輔とともにペリー艦隊のボーハタン号に小舟を漕ぎ寄せる。しかし、アメリカ側に乗船を拒否。ことが周囲に多大な迷惑をおよぼすことを恐れた松陰はそのまま自首し、囚われの身となってしまうのである。
古い舗装が剥がされ、砂利道となっている旧道区間。路面状況は良好で、乗用車でも問題なく走れる。
松陰と天城峠の関係に、筆者がことさらこだわるのは、密航を企てて下田へと向かう際の天城越えこそが、彼が自分の足で越えた最後の峠であるからだ。29年という彼の短い生涯の間に歩んだ道のりの長さには驚かざるをえない。
20歳のとき、アヘン戦争を知った松陰は、まず西洋兵学を学ぶため九州諸藩へ遊学する。そのあと江戸へ出て佐久間象山に師事しながら東北地方を巡り、海峡を通過する外国船を見るため津軽半島まで足を伸ばす。さらに下田での事件の前年、1回目の密航を企ててロシア艦隊の停泊する長崎に駆けつけるが、ひと足遅れで艦隊は出航してしまう。すると今度はいったん江戸へと戻り、ペリー艦隊の停泊する下田へと向かったのだ。
道の駅・天城越えから約1.5km、滑沢渓谷沿いの山中にそびえる“天城の太郎杉”。推定樹齢400年の巨木だ。
激動の時代、まるで何かに取り憑かれたかのように青年は歩き続けていた。彼は自分の足でいくつ峠を越えたのだろう。
昭和45年(1970年)、天城峠には有料の新天城トンネルがバイパスとして完成。平成12年(2000年)からは国道414号として無料開放され、ここで天城山隧道のある旧道は、道路としての役割をほぼ終えることになる。
昭和56年(1981年)に完成した河津七滝ループ橋。約45mの高低差を2回転(720度)ループでつなぐ。
その後、旧道は地元の自治体の手で荒れ果てた舗装のアスファルトが剥がされ、昔ながらの砂利道に生まれ変わり、目障りな道路標識類も撤去されて、すっかり落ち着いた雰囲気を取り戻している。
お役所の仕事としては、実に粋な計らいというべきだろう。