山中にひっそりたたずむ石組みのトンネル
川端康成の『伊豆の踊子』を始め、数々の文学作品のほか、映画や歌謡曲の舞台となってきた天城峠。ここは幕末の志士・吉田松陰が密航を企て、海外を夢見ながらひそかに越えていった峠でもある。旧道に分け入れば、そこには昔ながらの峠の風情があふれている。
天城峠から河津浜までは15kmほど。山から海へと周囲の風景はがらりと変わる。写真は下田から石廊崎へと向かう県道16号。
伊豆半島というと海をイメージする人も多いだろうが、そもそもは富士火山帯の上に生まれた大きな山塊である。天城山は日本百名山のひとつに数えられ、最高峰の万三郎岳は標高が1406mもある。北にそびえる箱根の山々と比べても遜色なく、最も高い神山(1438m)には及ばないものの、駒ヶ岳(1356m)などよりはこちらの方が高いのだ。
ノーベル賞作家、川端康成の短編『伊豆の踊子』は学生時代の実体験を元にした小説。
三島方面から国道136号を南に向かっていくと、修善寺あたりまではのどかな田園風景が続く。しかし、国道414号に入り、湯ヶ島温泉をすぎると、周囲は完全に山の風景になってしまう。そんな伊豆の山深さを最も強く印象づけるのが、天城峠の旧道を上りきったところにある天城山隧道(旧・天城トンネル)である。
日米和親条約により下田が開港したことで、天城峠はにわかに往来が賑やかになる。
「昔、天城峠を越えるときは、しばらく麓で待って、ほかのクルマと一緒に登って行くことにしていたんだよ。あの頃は暗黙のルールみたいなものがあって、トンネルの中で対向車と鉢合わせしたら、台数の少ない方が後退する決まりになっていたからね。ところが、いつまで待ってもクルマが来ず、1台で走り出した時に限って、バスやトラックの集団と鉢合わせしちゃうんだよなぁ(笑)」
馬蹄形の美しいアーチ形状をもつ天城山隧道の石組み。平成13年(2001年)には道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定された。
こんな話を聞かせてくれたのは、軽トラでイノシシ狩りに来ていた初老の猟師さんだった。当時のトンネルには照明もなく、夜中など、真っ暗なトンネルの中を延々とバックしていくのは、とても心細かったという。
下田街道における最大の難所、天城峠に最初のトンネルが完成したのは明治37年(1904年)。全長450mのトンネルはすべて切石で組まれ、現存する石造トンネルとしては最長を誇る。
黒船「サスケハナ」を模した下田港の遊覧船。1日11便運航されていて、運賃は下田港内周遊が1,200円。
天城峠にトンネルができると、湯ヶ野や河津、下田などの温泉地を訪れる湯治客が徐々に増え始め、また、それを目当てに旅芸人も下田街道を行き来するようになっていく。旧制第一高校の2年生、当時19歳だった川端康成が、湯ヶ島で14歳の踊り子と出会い、ともに下田まで三泊四日の旅をしたのは大正7年(1918年)のこと。ふたりもこのトンネルをくぐり抜けていったのである。
毎年11月に開催される“天城越え紅葉まつり”では、踊り子に扮した地元女性と一緒に記念写真も撮れる。
ノーベル賞作家の代表作、この『伊豆の踊子』ほど繰り返し映像化された文学作品は他にないかもしれない。おもなものだけでも映画6本にTVドラマ5本。古くは田中絹代や美空ひばり、その後は吉永小百合や山口百恵、さらに最近はモーニング娘の後藤真希にいたるまで、その時代を代表するアイドルたちが踊り子を演じてきた。
函館とともに近代日本初の貿易港となった下田。安政3年(1856年)、玉泉寺にアメリカ総領事館が置かれた。