【大矢アキオの イタリアでcosì così でいこう!】ずばり「ピエール・カルダン」という名のクルマ

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Così così(コジコジ)とはイタリア語で「まあまあ」のこと。この国の人々がよく口にする表現である。毎日のなかで出会ったもの・シアワセに感じたもの・マジメに考えたことを、在住25年の筆者の視点で綴ってゆく。

ファッション界の巨星、逝く

日本でも報道されたとおり、フランスを代表するファッション・デザイナーの一人、ピエール・カルダンが2020年12月29日、パリ郊外で死去した。98歳だった。

ニュースは筆者が住むイタリアでも大きく報道された。なぜなら、彼はイタリア北部ヴェネト出身であったからだ。イタリア名はピエトロ・コスタンテ・カルディン。彼は、ムッソリーニによるファシスト政権を嫌った両親に連れられ、1924年に幼くしてフランスへ渡った。
当時パリでは激しい差別に晒されたという。仏「リベラシォン」2019年7月1日付電子版のインタビューによれば、「人々は私たちを『マカロニ』と呼んだ」と回想している。

スバッロ・スタッシュ・ピエール・カルダンのリアスタイル。2006年からはフランス東部モンベリアールにあるスバッロ・コレクションに保管されている。

その後カルダンは、クリスチャン・ディオールのアトリエでキャリアを積んだのち、1950年に独立。
ザ・ビートルズの襟なしスーツも手掛け、それは彼らの代表的ルックスとなった。
オートクチュールのコレクションでは、未来的なデザインを提案。その傍らで、プランタン百貨店とのコラボレーションでプレタポルテを果敢にリリースすることで、フランス・モード界の活性化に大きく貢献した。

前後に付けられたカルダンのバッジ。ジグソーパズルを思わせるこのデザインは当時、彼による家具などにも反復されていた。

ライセンス・ビジネスの可能性を切り拓き、最盛期には約700のライセンスを供与していた。読者諸氏のなかには、中高生時代のガールフレンドがカルダンのハンカチを持っていたのを覚えている方も少なくないだろう。また家に、結婚式の引出物でもらったカルダンの皿や、香典返しのタオルケットがあったという方もいるに違いない。

リアフェンダーに記されたサイン。

意外にもクルマと深い縁

そのカルダンは、自動車の世界とも少なからず縁があった。
始まりはクライスラー系の欧州法人だったシムカにおける「1100」のピエール・カルダン仕様である。本人が47歳のときの仕事ということになる。内装の意匠を中心に、彼のセンスを活かしたもので、1969年のパリ・モーターショーで展示されたものの量産化には至らなかった。

カルダンのセンスが最も反映されたのは、このダッシュボードであった。

いっぽう、商品化された最初の例は、のちにクライスラーに吸収される旧アメリカン・モータース(AMC)が1972年モデルイヤーのクーペ「ジャヴェリン」に設定したカルダン仕様であった。

1980年代に入ると、さらにカルダンの自動車への関心は加速する。
その名も「ピエール・カルダン・オートモーティヴ」と名付けた企業をニューヨークに設立。「キャディラック・エルドラード」をベースに、内装はもちろん、外装の一部まで手を加えたカスタムメイドの車を限定生産した。

カルダンとともにワンオフを実現したフランコ・スバッロ。

ここまでは量産車を基にしたものである。したがって、日本で1982年から84年まで日産から3バージョンが販売された「日産ローレル・ジバンシィ」仕様に近い企画といえる。

いっぽう時代は前後するが、カルダンがプロデュースしたクルマには、よりオリジナリティが高いものがあった。

幻のワンオフ

1976年「スバッロ・スタッシュ・ピエール・カルダン(右)」と、そのベースとなった1974年「スタッシュ(左)」。

その名を「スバッロ・スタッシュ・ピエール・カルダン」という。

スバッロとは、スイス・グランソンを拠点に、1968年からワンオフやレプリカを製作してきたカロスリ(コーチワーカー)である。主宰しているのは、1960年代に伝説のレーシングチーム「スクデリア・フィリッピネッティ」のチーフメカニックも務めたボディ制作者/デザイナー、フランコ・スバッロ(1939- )だ。

室内をもうひとつの角度から見る。カーペットにもカレイドスコープ的色彩が反復されている。

かつて筆者は、スバッロ本人が校長を務める自動車製作学校で、スバッロ・スタッシュ・ピエール・カルダンの実車を前に話を聞いたことがある。

彼によると、誕生のきっかけは、著名画家バルテュス(1908-2001)の長男、スタニスラフ・クロウスキー・ド・ローラ(1942- )だった。
「スタッシュ」のニックネームでミュージシャンとして活躍していた彼は、スバッロにシボレー・コルベットのチューンを依頼してきた。
「やがて、まったくオリジナルのクルマを制作しようと意気投合したのです」とスバッロは語る。
かくして1974年、クーペ「スタッシュ」が完成した。

見上げれば、ルーフもカーペットと同じ素材によって覆われている。

センタービーム+チューブラーフレームにスバッロ得意の樹脂製ボディを組み合わせたものだった。いっぽう、ミドシップされるエンジンは、フォルクスワーゲンの3ボックスセダン「K70」用4気筒1.7L用を170HPまでチューンしたもののほか、数種が用意された。

「その後、彼(クロウスキー)が、私とカルダンを結びつけてくれたのです」とスバッロは証言する。彼らは、スタッシュをベースとして、名デザイナーのセンスを反映させる計画に着手した。

バケットシートはニット素材。定期的な毛玉取りは必須かもしれない。

スバッロ・スタッシュ・ピエール・カルダン最大の特徴である「無数の縦フィンで造られたダッシュボードも彼のアイディアでした」とスバッロは回想する。
スバッロにとって意外だったのは、シート、ドア内張り、そしてダッシュボードの一部のマテリアルだったという。「一流デザイナーなので当然高価なレザーと思っていたら、カルダンが選んだのはニットでした。さらに天井にもカーペットの素材を使いました」

意義は大きい

シャシーナンバーのプレート。

完成したスバッロ・スタッシュ・ピエール・カルダンは、1976年10月のパリ・モーターショーで公開された。「ピンクのカーペットの上にディスプレイされました」
当時フランス大統領に就任したばかりのジスカール・デスタン(2020年没)もスタンドを訪れたという。「なんと彼は、歌手のシルヴィ・ヴァルタンを同伴していました」とスバッロは懐かしげに語った。

ドアの内張りは、モダンな感覚と心地良さを両立している。

このコラボレーションはワンオフで終了した。だがスバッロは高級カスタムメイド車両の世界で、より知名度が向上。欧州の著名実業家のみならず、モロッコのハッサン国王に代表される北アフリカや中東の王族まで、顧客リストに並ぶようになった。

同時に、カルダンが関与した自動車のなかで、最もオリジナリティが高いものであることに疑いの余地はない。

1976年パリ・モーターショーにおけるピエール・カルダン(右)と、スバッロ・スタッシュ・ピエール・カルダン。(Franco Sbarro Archive)

今日、ファッション界で成功したセレブリティのなかには、自動車のコレクションを楽しむ人が少なからずいる。
しかし、このスバッロ・スタッシュ・ピエール・カルダンのように、量産とは一線を画してセンスの投影を試み、、造り手をも引き立てたクルマは希有といえる。
そうした意味で、45年前に世紀のデザイナーが手掛けたこのクルマは、今も輝きを放つのである。

文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA

この記事を書いた人

大矢アキオ

イタリア文化コメンテーター。音大でヴァイオリンを学び、大学院で芸術学を修める。1996年からシエナ在住。語学テキストやデザイン誌等に執筆活動を展開。NHK「ラジオ深夜便」の現地リポーターも今日まで21年にわたり務めている。著書・訳書多数。近著は『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)。

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