【知られざるクルマ】 Vol.4 イセッタと501……両極端なラインナップだった1950年代のBMW

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誰もが知る有名なメーカーが出していたのに、多くの人に知られていないクルマを紹介する【知られざるクルマ】。第4回は、「1950年代BMWの両極端なラインナップ」を象徴する、「イセッタ」と「501」をお送りする。

バブルカーか高級車しかなかった、両極端な1950年代のBMW

世界を代表する自動車メーカーで、日本にも多くのファンを持つBMWは、1916年にドイツのバイエルン州・ミュンヘンにバイエリッシェ・フルークツォイク・ヴェルケ(バイエルン航空機製造)として設立。現在の社名BMW=Bayerische Motoren Werke=バイエリッシュ・モトーレン・ヴェルケ、その名も「バイエルン発動機製造株式会社」となったのは、その翌年1917年のことだ。今もなおBMWは、発動機製造会社の名の通り「エンジン屋」の矜持を持つことでも知られる。

BMWといえば、最近はFF車やSUVが主力車種に増えてきたものの、「FRスポーツセダン」という印象が強い。そのイメージの源は、1960年代に登場した「ノイエ・クラッセ」こと「BMW1500」で、ここから様々なモデルが派生して3シリーズや5シリーズにつながっていった。では1950年代のBMWは?……となると、「バブルカー」と称される極めて小さなクルマか、少量生産の大型高級車しかないという、これまた実に両極端なラインナップしかなかったのだ。

BMW イセッタの初期モデル「250」。車体形状に沿ったカーブドウインドウは、まさにバブル(泡)カーの名を体現していた。

アッパー車種はこちら。1951年登場の「501」で、かなりの高額車だった。当時のBMWが上のイセッタとこの501系の車種しかラインナップしていなかったのは、現在から見ると奇異に見える。

航空機用エンジンやバイクを製造していたBMWは、1920年代末から「オースチン・セブン」のライセンス生産を開始。1930年代に入ると急速に技術を開花させ、直6エンジンを積んだサルーン「303」、高性能スポーツカー「328」、大型高級車「335」などを生み出した。戦後になると引き続きバイクの製造を継続、1952年にはクルマの生産を再開して、戦前の流れを汲む高級車「501」を送り出した。しかし501の価格は、当時の平均年収の数倍もした。戦後の混乱の中で、欧州の各自動車メーカーは安価で普及しやすいクルマを市場に投入していったが、とびきり高価な車種しか有していなかったBMWは、その必要性を強く感じていたはずだ。

戦前のBMWを代表する高性能スポーツカー、328。1936年から1940年にかけて464台が作られた。

戦後のBMW復興に貢献したバブルカー「イセッタ」

愛くるしい「イセッタ300」の後ろ姿。基本のリアタイヤの数は、狭い幅で配置される2輪だが、輸出先によっては1輪の場合もあった。

そのBMWが目をつけたのが、1953年にイタリアのイソが発売を開始した「イセッタ」だった。全長2.3mほどの丸くて小さな車体前方に、1枚だけ乗降用のドアが設けられているという奇想天外な小型車だった。ボディ右側面に積むエンジンは2スト単気筒236ccという簡潔なもので、チェーンドライブで後輪を駆動した。BMWは早速、イソからライセンス生産の権利を取得、1955年から「BMW イセッタ250」として発売を開始した。エンジンはBMWの単気筒バイク「R25」用の4スト245ccだが、BMWはそもそもバイクメーカーだったため供給には何の問題もなかった。イセッタは、ドイツではバイクの免許で運転できることもメリットだった。

北米仕様では大きなパイプバンパーを追加していた。ドアの換気窓は、気温が高いエリア向けの“トロピカル”仕様に備わる。

1955年末には排気量を298ccにアップした「イセッタ300」が登場。1956年秋からは外観上にも変化があり、「バブルウインドウ」を廃して開閉可能なスライドウインドウを装備するようになった。イセッタはイソから北欧など欧州各国への輸出権利を得たほか、北米にはパイプバンパーと大型ライトを、気温が高いエリアには前方ドアに換気窓を設けた仕様の輸出を行った。ブラジルでは、本家イソを抑え、BMW版のイセッタが「ロミ・イセッタ」としてライセンス生産された。

イソ・イセッタはイタリア本国製よりもスペイン生まれが多い。イタリア・スペインで製造していたイセッタには、こんな風変わりなトラックまであった。500kgほどの貨物を運べた。

面白いのは、本来の「イソ・イセッタ」の生産は、わずか1年・1000台ほどしかなかったこと。一方でBMWのイセッタは1962年までに約16万台がラインオフし、BMWに大きな成功をもたらした。そのため、「イセッタは本来イタリアのイソが開発したクルマ」ということが忘れられがちな要因にもなっている。また、スペインでは本国よりも多くのイセッタを作っただけでなく、「イソ・アウトカーロ」と呼ばれた小型トラック仕様も4000台ほど生産された。

戦前BMWの流れを汲む、大型高級車「501」と「502」

501のV8エンジン仕様は当初「502」のみだったが、1955年には501にもV8を搭載。「501 V8」と称した。

戦後BMWで、4輪車生産復活第1号となった501は、1951年のフランクフルトショーで発表、翌年から製造・販売が開始された。全長4.7m、全幅1.7m超の大きな車体を持つ6人乗り高級セダンで、車体設計は新しく行われていたが、フェンダーラインが残るデザインに1940年代の面影を残していた。

エンジンは戦前のセダン「326」から引き継いだ直6OHV1971ccエンジンを搭載。戦前の高級BMW純血種復活も意味したが、戦後の混乱収まらない困窮期に、量産車とはいえ少量生産の高級大型車を買えるユーザーが多くなかったことも、先に記した通りである。そこで、1954年のマイナーチェンジで501が「501A」になった際に価格を下げ、さらに廉価版の「501B」も追加。エンジンも出力をアップしたことで、501の販売台数は上向いた。なおも改良は続き、1955年には排気量を2077ccに拡大して、パワー不足と評された性能を、いくばくか向上させていた。

高級車たる501と502には、バウアー製の豪奢なカブリオレやクーペが用意された。501の製造開始初期は、BMWのミュンヘン工場に生産設備が整っていなかったため、セダンもバウアーで組み立てを行っていた。

そして1954年になって、501にBMW初のV8エンジンを載せ、各部を一層高級化した「502」が登場した。実は501の試作段階ですでに、直6エンジンでは大幅なパフォーマンス向上は見込めない……という判断を行っており、V8エンジンの開発を進めていたそうだ。2.6Lから100psを得た502の最高速度は160km/hにも達し、2.2L直6を搭載した「メルセデス・ベンツ220」を圧倒。高級セダンとして申し分のない高性能を得た。さらにこのV8をデチューンして501にも搭載、廉価版V8モデル「501 V8」として発売。1958年には直6がドロップし、501/502系のエンジンはすべてV8に置き換わった。

なお501・502ともに、その後名称を変えており、最終的には2600/2600L、3200L/3200Sとして1960年代前半まで製造を継続した。501/502系の総生産台数は、合計で約1.5万台のみだった。

V8エンジンを搭載して1954年に登場した502。V8は2.6/3.2Lの2種類があった。写真の個体は、3.2Lでもさらにパワーアップした「スーパー」。通常の3.2は最高出力120psだったが、スーパーでは140psを誇った。

車種バリエーションを増やすも「両極端」に変わりなく、BMWは経営難に
冒頭でも記した通り、1950年代のBMWラインナップは、上は高級大型車の501・502、下はバブルカーのイセッタという両極端な状態だった。それを是正するためには、中間を担う大衆モデルの開発が必要だったが、BMWにはその余裕がなかった。そこで最初にBMWが行ったのは、イセッタの「大型化」だった。1957年に登場した「BMW600」は、車体を全長2.9mまで伸ばし、エンジンを582cc空冷フラットツイン(これももちろんBMWのバイク用)へと拡大。リアタイヤの位置も常識的な配置に変えた。しかし基本がバブルカーという出自から来るエキセントリックな設計、大きくも小さくもないサイズなどの半端さゆえ、VWビートルなどの強力なライバルには太刀打ちできず、3年ほどで生産を終えている。

イセッタ300を大型化した「BMW 600」。前後で座れる4人乗りを実現したため、右側だけリアドアを新設したが、前席は相変わらずフロントのドアからのアクセスに頼るという変則的な設計だった。

一方、大型高級モデルの方も、積極的に車種を増やしていた。まずは1956年デビューの「503」。502をベースに作られた高級2+2スポーツクーペ/カブリオレで、BMWとしては戦後初の大型GTカーだった。502用の3.2ℓV8エンジンを積み、最高時速は190km/hと発表されていた。しかし販売台数は振るわず、400台ほどの生産で終わってしまった。

502のパワートレーンやプラットフォームを用いて、1956年に登場した高級GTカー「503」。

さらにBMWの高級スポーツカー路線はこれだけにとどまらなかった。それが「507」で、メルセデス・ベンツSLロードスターのような、2シーターのオープンスポーツカーだった。全長4.7mを超えた大型GTカーの503と異なり、507は大幅にコンパクトになって車重も200kg近く削減。150psまでアップした3.2L V8によって、最高時速220km/hを達成した。

当初は、比較的リーズナブルな価格設定として北米市場で相当数を販売する計画だったが、生産コストが高くなって価格をさげることができず、わずか252台のみの生産となった。

507は、かのエルビス・プレスリーも愛用した。写真の507<シャーシナンバー「70079」>は、3Dプリントなどを駆使してBMWがフルレストアした個体。プレスリー愛用の507のボディカラーは、本来ならご覧のような白だが、発見されたときは赤だった。ファンが口紅でクルマにメッセージなどを書くのを防ぐため、プレスリーが赤に塗り替えたのだという。

期待を込めて開発された高級スポーツカーの503と507だったが、販売台数は期待値にまったく届かなかったため、高い開発費を回収することができず、結果としてBMWに大きな損害を与えた。大型高級車の501・502は、改良やモデル追加を重ねて販売台数を増やしていったが、高額なクルマであることに変わりなく、また、メルセデス・ベンツには販売台数で敵わなかった。そしてこの下に位置していたバブルカー・イセッタとのギャップを埋めるため、急遽投入した600も成功しなかった。いくつか追加された車種は、極端なラインナップの是正には役立たなかったのである。おまけに、売れていたとはいえ、イセッタの利益率は低かった。これらの要素が重なりあって1950年代末のBMWは、倒産の可能性まで出てしまうほどの経営危機に陥っていた。

「700」と、現代に続くBMWの源流「ノイエ・クラッセ」が誕生

経営難となったBMWが1959年に発表した「700」はよく売れて、同社の窮地を救った。

そんな最中の1959年、BMWは大衆車「700」の発売を開始した。バイク用の空冷フラットツインエンジンを流用するのはBMWらしいアイデアだったが、突飛な設計の600と異なり、700はボンネットがある「常識的な」3BOXスタイルのクルマとして誕生した。もう、前から乗り降りしなくて良くなったのだ。しかもその車体はモノコック構造で、外皮はミケロッティによる美しいデザインだった。リアに積むR67用エンジンは697ccから30ps以上を絞り出し、全長3.5mの軽量車体を125km/hまで引っ張った。クーペ、セダン、コンバーチブルのバリエーションがあり、モータースポーツでも活躍した700は、これまでのBMWで最高の販売台数を記録。1965年までに18万台以上が作られて、BMWの窮地を救う立役者のひとつとなった。

1961年、「ノイエ・クラッセ」の第一弾「1500」が誕生。現在に続くBMWのイメージを確立した、エポックとなるモデルだった。

700の好評で持ち直したBMWは、新たな車種の開発を開始。そして1961年のフランクフルトショーで、BMWの未来を決定づけるクルマ「1500」をついアンヴェールした。「ニュークラス=ノイエ・クラッセ」と飛ばれた1500には、逆スラントノーズ、キドニーグリル、ボディサイド上部に走るキャラクターライン、少し折り返すCピラー付け根の意匠など、のちのBMWデザインの要素がすでに見られる。1500から派生した2ドアモデルはやがてあの「02」を生み3シリーズへ、排気量拡大によって誕生した「2800」は7シリーズへ、1500自体も5シリーズの原型となっていった。ノイエ・クラッセは、まさに現代BMWの始祖といえる存在なのである。

このほか、1960年代のBMWには、これまで記してきた流れと異なる系譜がいくつかある。それが「グラース出身モデル」だ。次回は、グラースとBMWに編入されたクルマたちをお送りしよう。

フォト : BMW

この記事を書いた人

遠藤イヅル

1971年生まれ。東京都在住。小さい頃からカーデザイナーに憧れ、文系大学を卒業するもカーデザイン専門学校に再入学。自動車メーカー系レース部門の会社でカーデザイナー/モデラーとして勤務。その後数社でデザイナー/ディレクターとして働き、独立してイラストレーター/ライターとなった。現在自動車雑誌、男性誌などで多数連載を持つ。イラストは基本的にアナログで、デザイナー時代に愛用したコピックマーカーを用いる。自動車全般に膨大な知識を持つが、中でも大衆車、実用車、商用車を好み、フランス車には特に詳しい。

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