モータースポーツ史を代表する異端児
現在の「FIAスポーツ委員会」に相当する「AIACR」は、1933年シーズンからのグランプリレースのために「オイル/水/タイヤ抜きの総重量750kg以下、ボディ幅85cm以下」という新レギュレーションを施行することとした。
一方ホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKWの4社が合併して1932年に結成された「アウトウニオン」は、新会社のPRのためにグランプリへの参戦を決定。ダイムラー・ベンツを辞し、自らの設計事務所を立ち上げていたフェルディナント・ポルシェ博士に設計を依頼する。そしてポルシェ博士は、それまで温めていた大排気量V16+スーパーチャージャー付きエンジンをミッドシップに搭載するアイデアこそ「750kgフォーミュラ」に好適と判断し、革命的なフォーミュラマシンを開発した。それがアウトウニオンPヴァーゲンである。
1934年から実戦投入されたタイプAでは、4358ccから295psを発生。翌1935年のタイプBでは、4951ccに拡大して375ps。さらに1936年のタイプCでは6005ccで520psを発揮。この年のヨーロッパタイトルを、若き英雄ベルント・ローゼマイヤーにもたらすことになる。また1934 年の独アヴスにおける試験走行を皮切りに、一連のPヴァーゲンは国際速度記録にも挑戦。レーシングドライバー、ハンス・シュトゥックらの操縦で、数多くの世界記録を樹立した。
1938年以降は、3.0Lに排気量を制限する新規約が発効。すでに国民車計画(のちのVW)に集中していたポルシェ博士に代わり、愛弟子ロベルト・E.v.エーベルホルストは、V12エンジンを搭載したタイプDを開発。メルセデスとの激しいタイトル争いを1939年のシリーズ消滅まで展開した。
しかしいずれのPヴァーゲンも、操縦性はかなりのオーバーステア。当時のドライバーにとってはかなりの難物で、完全に乗りこなすことができたのは、アウトウニオンのレース活動の象徴的存在でありながら、同社の速度記録車による悲劇的な事故で夭折してしまったローゼマイヤー。あるいは急死した彼に代わって1938年からチームに加入したタツィオ・ヌヴォラーリくらいだったとも言われている。
しかし同時代のメルセデス・ベンツとともに、アルファ・ロメオを筆頭とするイタリア勢やブガッティなどのフランス車をあっという間に時代遅れとさせてしまった「シルバーアロー」は、1930年代後半のグランプリにおける紛れもない主役だった。
そして何より、1950年代のクーパーなど、第二次世界大戦後のレーシングカーにも多大な影響を及ぼしたのである。
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