デイトナ・コブラこそがエンツォに脅威を感じさせた
『アメリカン・レーシング』は1950年代から1960年代のアメリカのレースの当時の写真を多数収録した貴重なドキュメント。
ベニス・ビーチにあったスカラブのワークショップを受け継いだシェルビーの工場ではレーシング・コブラの開発に拍車がかかった。とはいえ、1963年のデイトナ3時間レースで4位、セブリング12時間レースでは11位と振るわなかったため、ル・マンにはシェルビーとしてではなく、ACとプライベーターの個人名で、空力を考慮してファーストバックのハードトップを装着したコブラを2台出走させて様子を見た。この年はフェラーリ250Pが1位と3位、GTクラスの250GTOが総合2位、4位、5位、6位と上位を占めたが、コブラはそれに次ぐ7位を得た。
9月にはブリッジハンプトン500kmレースでシェルビー・コブラは会心の優勝を遂げた。ダン・ガーニーが1位、ケン・マイルズが2位にはいり、ジャガーやコルベット、そしてフェラーリ250GTOを抑えての勝利だった。
この年の終わりまでにACコブラの生産は260台を超え、とっくにFIAのGTの認可を得ていたが、ル・マンに照準を当てたエアロダイナミックなクーペの開発を進めていた。FIAのレギュレーションに合致した範囲内であれば、コブラのバリエーションのひとつとして認められるからだ。ピート・ブロックはフェラーリ250GTO打倒のためによりスリークなボディをデザインした。
そして、1964年のデイトナ・コンチネンタル2000kmレースで、この新しいクーペはデビューした。優勝は新型のフェラーリ250GTO’64で、2位の250GTO、3位の250GTO/LWBに続いてガーニー/ジョンソンのコブラは4位。新しいコブラ・クーペはリタイアだったが、デビューレースを記念して『デイトナ・コブラ』と呼ばれるようになった。続くセブリング12時間レースにおいては1-3位を占めたフェラーリ275Pや330Pに続いて、デイトナ・コブラが4位に入り、5位、6位、8位もコブラで、フェラーリ250GTO’64は7位だった。その後のレースではフェラーリに勝てなかったが、ル・マン24時間では、フェラーリ275P、330P、330Pが表彰台を独占する中、4位にダン・ガーニーとボブ・ボンデュラントのデイトナ・コブラが入り、GTクラスの優勝を獲得したのである。なおこのレースでのフェラーリ250GTO’64の戦績は、5位、6位、9位だった。この年はフォードGT40がル・マンに初出場したが、リタイアに終わった。エンツォにとってはGTOがコブラに負けたことが何よりもショックだったに違いない。
翌1965年はコブラがFIA選手権を席巻した。プロトタイプではフェラーリのPシリーズやLMが勝利を重ねたが、GTクラスではコブラ7勝のうちデイトナ・コブラは実に5勝をあげ、初のワールド・チャンピオンを獲得したのだ。デイトナ・コブラこそフェラーリ250GTOを打ち負かし、エンツォに脅威を感じさせた存在だった。