世界を変えたスプレーの登場!キットもその周囲も彩りを増していく…【アメリカンカープラモ・クロニクル】第10回

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1961年、カラフルな時代、モノトーンの陰

1961年、アメリカンカープラモに大きな変化が訪れた。遡ること10年前にヒロハタ・マーキュリーと呼ばれる極めつけの傑作カスタムカーを製作・発表して以来、比類なきカスタマイザーとしてその名を轟かせたジョージ・バリスがアメリカンカープラモの世界に降り立ったのだ。

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セレブリティーの単なる名誉職、ただの名前貸しではない。バリスはカスタマイジングアドバイザーとしてamtと独占契約を締結し、以後そのあふれる独創的アイデアをカープラモに惜しみなく注ぎ込むことになるのだが、その最初の「仕事」は意外なかたちを取って市場にあらわれた。塗料である。

カスタムカーの重要な魅力のひとつに、そのきらびやかで美しく手の込んだペイントが必ず挙げられるけれど、バリスはそうした「魔法」を、レシピとじょうずな使い方込みで子供たちに惜しみなく伝授することからはじめた。

塗料はスプレー式の「ソフト」ラッカーだった。20世紀の大発明のうちのふたつ、アクリル樹脂塗料とエアロゾルスプレーは1950年代に空前の拡張期を迎えたテクノロジーだったが、このうちプラスチックの表面を侵さない「ソフトな」溶媒を用いた家庭用の手軽なスプレー塗料を数多く開発・展開していたカリフォルニア州ロサンゼルスのパクトラ・ケミカルが、バリスのレシピにもとづくスプレー塗料の開発・生産を受託することとなった。ある程度年配のわれわれ日本人にも馴染み深い、かつてパクトラタミヤを手がけたあのパクトラである。

製品名はamtキャンディカラー、当時のホットロッド的な語法にならって「KANDY KOLOR」と綴られたこのスプレー式ホビーペイントは、初手からいきなり2コート式の塗料として登場した。まず輝くメタリックのベースコートでボディーを覆い、透明で彩度の高いトップコートで仕上げる高度な塗装手法だが、amtキャンディカラーのラインナップにはこうしたメタリックベースとクリアートップコートが揃っていた。

展開にあたってはその使い方をわかりやすくていねいに解説したフルカラーのイラスト入りリーフレットが用意されたが、図解される内容はきわめて高度で、美しいキャンディ塗装の塗膜はどのような層で構成され光はどのように反射するか、またそうした理想の塗膜を得るためにはスプレーをどのように運用すればよいかが詳細に示されていた。

親に連れられて行くカーディーラーのショールームでは決して出会うことのできない魔法の秘密を当代きってのウィザードにいきなり開示されて、小さなカープラモの小さなオーナーたちは文字どおり色めき立った。それまで白いプラスチックのボディーにいきなりホットリックス(フレイムパターン)の付属デカールを貼ったり、アラビアガムベースの水彩絵具を筆で塗ろうとして失敗を重ねたり、あるいは親のガレージから豪胆にも「本物の」ラッカースプレーを拝借してクリスマスや誕生日に納車されたばかりのマイカーをぐちゃぐちゃに溶かしたりして涙をのんだ子供たちにとってamtのスプレーは福音であり、ジョージ・バリスは導きの羊飼いであった。

1本たった89セントの魔法の杖、amtキャンディカラーは1961年の春頃から、当時実車の世界で恒例となっていた「春の新色」と呼応するように発売されて大ヒット、amtにさらなる富と方向性の確信をもたらした。

対抗策を採るジョーハンと、取り残されるハブリー
一方ジョーハンはといえば、拡張に拡張を重ねてついに塗料まで発売するに到ったamtの路線に、プラスチック本来の持ち味であるカラフルな成型色を製品にランダムに盛り込むことで対抗しようとした。この頃のジョーハン製カープラモは、買って家に持ち帰るまで中身のボディーカラーがわからない事態を回避するため、amt/SMPが採用していたようなエンドステッカーによるシールドを廃し、上箱天面に直接中身の車種を印刷する方式に切り替えた。

カープラモ販売店に礼儀正しい少年とさえ目されていれば、ひと声かけて中身を確認することができるまことに親切な配慮ではあったが、それは同時に真っ赤なキャデラックが欲しい少年の行きつけの店にベージュのキャデラックしか置かれていないといった困った事態をも少なからず引き起こした。

1961年次のジョーハンは先行するamt/SMPがとっくにそうしていたようにホイールウェル(タイヤハウジング)をようやく全車標準装備としたが、エンジンパーツはいまだに導入されず、他社で力強い売れ行きを誇ったコンバーチブルも一部パッケージの横に告知こそ出したものの販売にこぎつけるに到らず、苦戦が続いていた。

前年に奇抜なアプローチでこの市場に参入を果たしたハブリーも、ラインナップに幅をもたせるような新しいライセンスをなかなか獲得できないまま、1960年の品とあまり変わり映えのしない、もっといえば1961年になって変化したホイールといった細部を反映していないなど少々手抜かりの残る61年式フォードのワゴンとセダンを販売し続けた。

現代のテクニックとマテリアルで仕上げられた、amt製1961年型ポンティアック・ボンネビル(制作:畔蒜幸雄)。当時amtが発売したスプレー塗料に胸躍らせたキッズたちは、amtの謂う”プロフィニッシュ”をどこまで実現することができたであろうか?

キット自体の方向性もさらに広がりを見せるamt
1961年のアメリカンカープラモ市場は一種の躁状態にあったといっていい。こうした市場では、誰の目にも新しいことをひとつでも多く展開した者が総取りを果たすものだが、amtはまさにそうした存在であり、塗料の展開以外にも同社は抜かりない手配りをみせた。

エンジンパーツはハブリーに刺激されて登場したビュイック・スペシャル4ドアステーションワゴンとポンティアック・テンペスト4ドアセダンを含む各種コンパクトカーといわゆる高級車――コンチネンタルとインペリアルを除く全モデルに付属することとなった。エンジンなきカーブサイドモデルは、代わりに情景模型的なアプローチを可能にするトレーラーやホイストといった渋い脇役パーツを与えられることでその価値を高められた。

コンチネンタルとインペリアルからはどこかちぐはぐだったコンペティション仕様が外され、代わりにパレード仕様といったより説得力のある選択肢が用意された。厚遇が続くフォード車のラインナップには「日曜は教会へ出かけ、月曜には市場へ家畜を売りに行ける車」と表現されるパッセンジャーカー/ピックアップトラック両方の性格をあわせ持つクーペユーティリティー・ランチェロがさりげなく加わった。

amtのオプショナルなおまけパーツはそれまでとは比較にならない物量となり、3イン1のいずれとも結びつかない最先端の車載テレビや車載電話が入っていたり、コンバーチブルには展張状態の幌が付いたかと思えばカーブサイドだったはずのコンパクトのトレーラーに「積荷」としてエンジンが付属したり、あるいは完成したモデルを壁に飾りつけるための組立式シェルフと銘板を同梱して「お部屋の壁でオートショーを開催しましょう」「なお、こちらはお母さま方のためにご用意しました」と広告に謳う抜け目のなさだった。

amtの勢いはとどまることを知らず、その名はまるで「And More Thing(そしてさらに)」の略であるかのように思われた。

すべてが過熱と拡張ばかりに見えた1961年、この年を最後にSMPが静かにその役割を終えた。本連載第3回に書いたように、むずがるシボレーからライセンスを得るための方便として設立された会社は、すべての権利関係をきれいに整理してamtに知見と技術を引き継ぎ、以降その名がプラモデルの箱を飾ることはなくなった。

photo:服部佳洋、羽田 洋、畔蒜幸雄、圓道 智、山田剛久、秦 正史 協力:KEN KRAFT https://kenkraft.net/

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