日産のワンエイティといえばSX…だけじゃない!「1949年型日産180型トラック」【魅惑の自動車カタログ・レミニセンス】第12回

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激動の時代を生き延びた名車

日産やトヨタがかつては大型トラックやバスも手掛けていたことを知る人は、今や少ないかもしれない。日産の大型トラック最後のモデルとなるのは、1969年に発売された780型トラックで、このモデルは1976年に生産を終了している。

【画像16枚】貴重なカタログで1949年型の全貌を知る!

日産の大型トラック/バスがフェイドアウトしていったのは、もちろん日産ディーゼルを傘下に置いていたためであるが、同社は現在はUDトラックスとなって日産グループからは離れている。日産の大型トラックのルーツとなるのは1937年に登場した80型トラックで、同車は戦前のトラックとしては日本では珍しかったセミキャブオーバー式レイアウトを採用したものである。同じフロントノーズを持つバスは90型で、トラックは「8」、バスは「9」という数字を持つ型式というのが、以後受け継がれていくことになる。

80型トラックはデビュー間もなく戦地へと駆り出されたのだが、ここでセミキャブオーバー式ならではの整備性の悪さなどが問題となり、日産はオーソドックスなレイアウトの180型へとモデルチェンジを行う。これが1941年2月のことである。180型のフロントマスクは80型の形状を継承したものであったが、物資の不足により1943年には戦時形へと移行。立派なプレス型だったスタイリングは平面を多用したものとなり、木材も多く使用、果てはバンパーを省略・ヘッドライトも1灯のみと、無残な状態になっていく。

終戦後、生産の再開は1945年11月のことで、このときは戦時形そのままの再生産であったが、翌年あるいは翌々年にはデビュー時の状態に戻すことができたようである。1950年からはメッキ装飾が増加し、フロントグリルの横バー全て、さらにエンジン側面フードにもメッキモールが付くようになった。そして1952年、モデルチェンジで380型へ移行。フェンダーとヘッドライトが一体化されただけでなく、レイアウトも効率的なものに見直されている。この頃は自動車工業の中心はトラックであっただけに、このモデルチェンジは社運を賭けたと言ってよいものだったそうだ。

仰角で捉えた迫力ある姿が描かれる表紙。文字はアルファベットのみでカタカナも漢字も使われていないが、国外向けカタログというわけではない。絵の通りダークブルーが純正色だったのだろうか?

改良箇所から窺い知れる当時の自動車事情
さて、ここでお目にかけているのは、1949年の180型トラックのカタログである。カタログとは言ってもほんの簡素なもので、三つ折りの簡易カタログ、あるいはリーフレットとでも呼ぶべきものであろう。時代を反映して紙質は粗悪なものだ。サイズは297×210mm(縦×横)。全体に非常に傷んでおり、テープで補修されたりもしているのだが、そこは我慢してご覧いただきたい。

1949年型なので、フロントグリルはメッキの加飾のない簡素なタイプである。中面では「50余個所の改良成る ニッサン トラック 1949年型」とのキャッチの下、様々な変更箇所について説明されている。エンジンは80型から継承された直列6気筒で、排気量3670ccから85馬力を発揮。トラックの主流がディーゼルになるのはもう少しあとのことで、これはガソリンエンジンである。

エンジンの改良箇所としては、キャブレターを「40EH-4型としました。」「バタフライ式チョーク・バルブを採用して、始動を用意にしました。」、ガスケットを「アルミ製を廃し、銅製品に統一し、耐久力を増しました。」、燃料ポンプ取り付け部を「スタッド・ボルトに改めました故、取り付け取り外しに便利になりました。」などの説明がなされている。

このうち、インテークマニホールドについて「代燃使用の場合、掃除用の穴を開けられる様に、両端にボスをつけました。」とあるのに注目したい。代燃とは、戦時中に使用された木炭ガスなどの代用燃料のこと。ガソリンの供給が安定し、また代燃車からガソリン車への再改造が解禁されたこともあって、1951年には代燃車は急速に姿を消すことになるのだが、それまでは戦後モデルの新車ですら、代用燃料仕様に改造されて使用されることが多々あったということであろう。

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