マツダ・コスモスポーツ、トヨタ2000GTは日本を代表するスポーツカーだ。このコーナーにて、その次に紹介するクルマとして何が相応しいだろうと考えた時、本格的なスポーツ性を追求せずとも粋な117クーペが浮上した。カロッツェリア・ギアに在籍していたジョルジェット・ジウジアーロが描いた類まれなデザインを再現するには、職人たちの手作業に頼るしかなかった。
スピードに偏しないエレガントクーペ
石川島造船所と東京瓦斯電気工業が自動車の生産を1916年に始めたというルーツを持つのが、日本最古の自動車メーカーであるいすゞ。1922年にはウーズレーのノックダウン生産を開始、1949年にいすゞ自動車へ社名変更。戦前戦後はトラックの生産がメインであり、戦後初の乗用車はヒルマン・ミンクスのノックダウン生産が始まる1953年のことだった。1957年にはヒルマンの完全国産化を果たし、その技術により初の社内設計であるベレルを1961年に発売する。
今回の主役は117クーペであるが、このクルマが生まれる背景にベレルの存在は欠かせない。というのも、ベレルの後継車種を開発するに当たり、いすゞはイタリアのギア社と提携したからだ。その当時、ギア社には若きチーフデザイナーであるジョルジェット・ジウジアーロが在籍している。ジウジアーロから数案が出されるものの、ベレルの後継車種開発は暗礁に乗り上げる。
小型車としてベレットがあり、スポーティな性格が大いに支持されたが、やはりヒルマンクラスのもう少し大きな車種が欲しい。そこでベレルまでのような高級車ではなく、中型のフローリアンが開発されることとなる。フローリアンとなるべきシャシーに注目したジウジアーロから、高級クーペの提案があったことが117クーペ誕生のきっかけとして語られる有名なエピソードだ。
1966年のジュネーブ・ショーに出品されたギア/いすゞ117スポルトはこうして生まれたわけだが、実はそのプロトタイプはフローリアン・ベースではなくベレットを切り継ぎしたものであったという話もある。
いすゞが車種を増やそうとしたのは、堅調なトラックの販売があっても、乗用車にまで利益が回せないという側面があったようだ。フローリアンの開発とともにイメージリーダーが必要と考えられていた矢先、ジウジアーロから新しいクーペの提案があったという考え方もできる。
そもそも117クーペはスポーツカーとして開発されていない。それは極初期のカタログに堂々と謳われている。『スピードに偏したスポーツカーに訣別しよう』。さらには『芸術品に実用性を与えたクーペ・ド・エレガンス』とも書かれているのだ。
だから、「乗るとガッカリするよ」というありがたくない風潮は、117クーペをスポーツカーとして捉えてしまったことによる悲劇と言える。特にハンドメイド期を過ぎた、いわゆる量産タイプでは排ガス規制への対応により、余計にこの風潮を強めた。ただ、クルマの性能など何も知らない人間にとって、クルマの評価はスタイルが第一で、続いて使い勝手などの実用性となる。ステイタス性を重視する向きもあるだろう。
【写真】1度見たら忘れることが難しいほど、端正かつ複雑なラインを描くいすゞ117クーペの詳細を写真で見る
まだ小学低学年だった筆者にとり、117クーペはまさにスタイルに衝撃を受けた1台。当時、我が家にはハコスカセダンがあり親戚のビュイックやアウディと一緒に出かけることが年に数度あった。まだスーパーカーブームの前のことながら、そんなわけでクルマには一家言あるつもりの無邪気な小学生。ところがある日、確かあれはアウディのリアシートからだったが、とても素敵なクルマが横に並んだ。「カッコイイ! 何あのクルマ?」と聞く筆者に、運転席の叔母は「117クーペね」と答える。メーカー名までは教えてくれず、117という数字の車名からてっきりガイシャだと勘違いをしてしまった。クルマの判断基準がスタイルくらいしかない小学生、そのデザインは国産車のそれではなかった。完全にひと目惚れだった。
のちに117クーペがいすゞという日本のメーカーが作る車種であることを知り、少しショックだった。自動車雑誌で調べると、いすゞはトラックメーカーであり、乗用車はフローリアンというタクシーみたいなクルマしかない。というのは、フローリアンは当時タクシーとして採用されるケースが多かったからで、あれだけエレガントなスタイルと商用車メーカーが結びつかなかったのだ。
そんな小学生が免許を取る年齢になると、やはり気になる存在として117クーペが浮上する。そこで調べ物を始めると、最初期のモデルは手作りゆえハンドメイドと呼ばれていることを知る。昔の記憶では後ろ姿が印象的で、その後見た多くの117クーペが角形ランプの後期型だったものだから、写真で見るハンドメイドの端正な佇まいに、もう1度衝撃を受けることになった。
ジウジアーロが描いたラインを寸分も損なわずに製品化するため手作りされた端正なボディ
だが、ハンドメイドは30年前ですら後期モデルより高価。それなら量産でいいじゃんと、丸目のOHCエンジン車を見に行くのだが、当時はまだ血気盛んな20代前半。柔らかな足まわりと高回転まで回りたがらないエンジンで、買う意欲がしぼんでしまった。かように117クーペを購入寸前でやめてしまった方も多いのではないだろうか。それでもあえて今、お伝えしたい。幸運にも仕事がらみでハンドメイドから量産丸目、最終角形ライトまでひと通り乗る機会を得た。そのうえで117クーペは大人になった自動車少年に、とてもいい相棒であると。
車齢が40年以上にもなるクルマを走らせるのに、コーナリングの限界速度まで試すだろうか。ヨーイドンで全開加速するだろうか。そんなことより当時の雰囲気を楽しみたいと思うはずだ。非常に曖昧な表現だが、117クーペにはとても雰囲気がある。それは60年代、70年代へと作られていた現役時代の空気感を非常に濃厚に味わえるのだ。
当時としても非常に細いAピラーや、独特のガラス面積による開放感が室内に上品な空気を生み出す。ハンドメイドなら台湾楠、量産タイプではプリントになる横に長いメーターパネルも優雅な気持ちの源泉だ。今回のハンドメイドモデルだと、同じエンジンを積むベレットGTRには速さもコーナリングスピードでも敵わない。でもそれが何か? と思える。優雅なインテリアと控えめながら快音を発するエンジンがなせる技だろう。
シャシーはフローリアンと同じだが、ド・カルボン式ダンパーを備えたことで飛躍的にしなやかで節度ある減衰力を得ている。リアはリジッドだから、当時の国産車として標準的なもの。スライド中に足が無用に動かないから、リジッドが好きという人もいるくらいだ。これはインテリアの優雅な雰囲気と相反する唯一の点かもしれない。
だが、普通に一般道や高速道路を走る時、それほどリアサスの動きが気になるわけではない。それよりも、ソレックス2連装による吸気音の高まりと背中に加速Gを感じていると、スポーティなクーペは実に魅力的なのだ。ガムシャラに走らなくても伸びのある加速がスポーティな気分を味わえる。そしてウッドパネルに並ぶ6連メーターが、生き物のように針を動かす様がさらに気分を高揚させる。
今回の車両はいすゞ117クーペオーナーズクラブの、Tさんが所有する1970年式のハンドメイド。ハンドメイドは大きく分けると年式により3タイプに分かれ、その中間ということになる。購入時に外装を始めとする手直しをすませ、乗り出してから1度エンジンをオーバーホールしている。そのためだろう、真夏の熱気が残る9月初旬の取材だったが、エンジンは絶えず一発始動。足まわりもしっかりメンテナンスされている印象で、117クーペならではの優雅さを味わえる状態。クラブで製作した純正形状のステンレスマフラーが奏でるDOHCサウンドも、気分を盛り上げてくれるスパイス。クーラーを完備しているため、今でも長距離を不安なく走れるそう。117に乗るなら、これくらいスマートでありたいと思わせてくれる1台だった。
【specification】いすゞ117クーペ(1970年型)
●全長×全幅×前高=4280×1600×1320mm
●ホイールベース=2500mm
●トレッド(F:R)=1325:1310mm
●車両重量=1090kg
●エンジン形式=水冷直列4気筒DOHC
●総排気量=1584cc
●圧縮比=10.3:1
●最高出力=120ps/6400r.p.m.
●最大トルク=14.5kgm/5000r.p.m.
●変速機=4速M/T
●懸架装置(F:R)=ダブルウイッシュボーン:セミフローティング・リーフ
●制動装置(F:R)=ディスク:リーディングトレーリング
●タイヤ(F&R)=6.45-14-4PR
●新車当時価格=172万円