驚愕のセミスクラッチ!ボンネットバス「日野BH14」をあのプラモ+プラ板工作で作り上げる!!【モデルカーズ】

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大型中心に展開した日野製ボンバス

ボンネットバスやボンネットトラックといえば、いすゞの顔を真っ先に思い出す人が多いのではないかと思うが、日野のクラシカルなフロントフェイスも、やはり懐かしく思い浮かべる方は少なくないだろう。フェンダーとヘッドライトが独立した古めかしいスタイル、クロームの横バーを並べた”剣道の面”のようなグリルは、1950~1960年代の日本の景色に欠かせない存在であった。

いすゞの前身であるヂーゼル自動車工業のうち、1942年に日野製造所が独立してできたのが今の日野自動車であり、当時の社名は日野重工業といった。また、この日野製造所は元を辿ると東京瓦斯電気工業(1910年、東京瓦斯工業として設立)の大森製造所であり、そのため日野自動車ではルーツを東京瓦斯電気工業としている。戦後は1946年、日野産業と改称し大型トレーラートラックの製造を開始した。

終戦間もないこの頃は人員の大量輸送が大きな課題であり、そのため日野産業はトレーラー用のトラクタトラックを利用したトレーラーバスの製造を開始、これが日野のバス事業の始まりとなる。人心も落ち着いてくるとトレーラーバスではやはり小回りの利かなさが短所としてクローズアップされてきたため、1950年、日野も単車のバスを発表した。これが日野BHシリーズの原点となる日野BH10型である。

シャシー・レイアウトは車室を広く採るためにエンジンをオーバーハングへ押し出した形で、セミキャブオーバーに近いいすゞBXとは対照的である。回頭性を良くするため、フロントバンパーは円弧を描いた形となっていた。ホイールベースは5mと大型級で、4.3mの中型級を中心としたいすゞとは上手く棲み分けをした形となり、BHシリーズが生産を終了する1964年まで、日野は大型中心に販路を維持していったようだ。とはいえショートモデル(ホイールベース4.3m)もあり、そちらは型式名がBHとなる(1951~1961年)。

搭載エンジンはBH10型では7LのDS10型ディーゼル(110ps)であったが、1956年には7.7LのDS30型(150ps)、1960年からは8LのDS50型(155ps)と進化している。また、前述の通りホイールベースは5mで変わりなかったが、リアオーバーハングを延長することで全長は当初の9.4m(BH10型)から9.95m(BH13型)へと伸ばされた。

さて、ここでご覧頂いているのは、1958年式の日野BH14を1/32スケールで再現したプラモデルの作例である。ただし、ボンネットバスのプラモデルは、エルエス/マイクロエースのいすゞBXD30が唯一のものだ。この作例はフロントノーズを自作し、ボディはマイクロエースのものを切り継ぎして延長、リアエンドも自作により形を変えて制作するという、まことに手の込んだ作品なのである。

ボディを伸ばすだけでなくリアエンドも作り直し
制作に使用したのは前述の通りマイクロエースのボディだが、写真を見て分かる通り、かなりの部分をプラ板で作り直している。マイクロエースのボディには中扉と前扉のバリエーションがあるが、ベージュの部分が中扉車、黄色の部分が前扉車のボディから切り出した箇所。それ以外の白い部分はプラ板から作り起こしたものだ。

フロントフェンダーとリアエンドは、ヒートプレスによって制作されている。ヒートプレスとは、熱で柔らかくしたプラ板を木の原型に押し付けてプレスする手法のことだ。リアエンドの木型は、実は、先にこのサイトでご紹介したトヨタDB70と共通のものを用いている。トヨタのボデーは梁瀬自動車の架装を再現しており、一方このBH14は金沢産業のボデーなので、正確に言えば違う形なのだが、印象としては似通ったものなので同じ木型を使いつつ、窓の開け方などで異なる形状に見せているのである。

京都市交通局のカラーリングは現在も使用されているものだが、薄いグリーンをC1ホワイト+C66デイトナグリーン+C2ブラック、濃いグリーンをデイトナグリーン+ブラックで塗り分けている。シートカラーは実際のものは不明だが、ボディカラーとのコーディネートの意味あいからグリーンとした。

作例制作=周東光広/フォト=羽田 洋 modelcars vol.131より再構成のうえ転載

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