様々な断片から自動車史の広大な世界を管見するこのコーナー、今回は、歴史上始めてユーラシア大陸を車で横断した冒険家ボルゲーゼ公爵と、彼の冒険を成功に導いたイタリアの名車第1号イターラについて語りたい。
北京から巴里までの大冒険
イターラは、イタリアにおける自動車のパイオニアであるチェイラーノ兄弟のマッテオによって1904年に創業。大型の高級車を製造した。チェーンドライブが主流な中で、いち早くシャフトドライブを採用する。4気筒7433ccで4速ギアを持つ。全輪同サイズのミシュランタイヤを履いたが、4輪それぞれ4回の交換だけで走りきった。赤いモデルがベースの状態で、そこに大きな予備のガソリンタンクと水タンクとオイルタンクを装備した。
ローマのボルゲーゼ家といえば、ローマ教皇パウロ5世を祖先に持ち、ナポレオンとも縁戚になるヨーロッパの貴族の名門中の名門である。当主のシッピオーネ・ボルゲーゼ公爵は36歳、安寧な生活に満足できない冒険家であり、冬山にひとりで臨むほどのアルピニストであった。ある日、北京・巴里ラリーの開催が新聞に発表されると、これこそが自分のために用意された冒険と確信して、すぐにイターラ社にラリー用の特別仕様車を注文した。
この本の著者ルイジ・バルツイーニは電気通信や鉄道や自動車が実用化した20世紀初頭の新しい時代にふさわしく、進取の気性に富み、しかもタフなイタリアの新聞記者で、国際的に活躍した。革命前のロシアや王朝の時代の中国を舞台としたこの冒険譚をボルゲーゼ公爵と共にし、彼は毎日苦労して電報で発信して新聞に連載した。
しかしいざ蓋を開けると、25台の参加予定者の多くが棄権したので、中止が決定されたが、ボルゲーゼ公爵は自分1台だけでも北京から出発するという電報を主催社であるパリの新聞社に送りつけた。その情熱に呼応するように他の有志数台も参加を表明して、主催者の中止決定を覆した。かくして1907年6月10日、5台の参加車が北京をスタートした。その内訳はオランダから4気筒のスパイカー、フランスから2台の2気筒ド・ディオン・ブートンと単気筒の3輪車コンタル、そしてイターラである。
晴れがましくも先が見えないスタートの際には、北京に外交官として赴任していた公爵の弟リヴィオと、公爵夫人であるアンナ・マリアもイターラに同乗して、華を添えた。
この冒険は、乗組員3人の力の結集に加えて、途上で出会った人々の助力があってこそ成し遂げられた。壊れた車輪を職人に新たに作ってもらったこともあった。老朽化した橋を渡る途中で橋が壊れて、宙吊りになった時だって、地元の人々の手伝いで助け出された。苦力(クーリー)と呼ばれた人夫や馬・牛・驢馬にもよく引っ張ってもらったものだ。
さて同伴者ふたりを途中から鉄道で北京に帰らせてからが、彼ら、すなわちピロータのボルゲーゼ公爵とメカニックのエットーレ、そして新聞記者ルイジの3名による難攻不落を超える道程の始まりだった。道無き道を進み、山岳地では大きな岩の間の隙間を見つけて縫って進んだり、よじ登って越えた。また平原では強烈な陽射によって表面は乾いた土地でも、その下は底なし沼になっていて突然ずぶずぶと埋もれてしまったこともあった。河に行く手を遮られることも度々で、浅瀬を見つけて渡ったり、材木を調達して橋を渡したこともあった。毎日が苦難の連続だったが、肉体も精神も強靭な彼らは、一晩休むと翌朝にはまた力が漲るのを感じて、新鮮な気持ちでその日の冒険に向かった。
上の写真、リオ製1/43ミニカーには再現されてないが、北京に送られた車両には前後に跳ね上がったフェンダーが装着されていた。それぞれが水平な板であり、取り外して、段差を乗り越えるためのスロープとして使えるようになっていた。トリノの自動車博物館の所蔵品であるイターラ35/45HPには、その特徴的なフェンダーも再現されている。
メカニックのエットーレは鉄道操縦士の父親の事故で孤児となったのをボルゲーゼ公爵に救われた男だったが、毎晩、点検修理が終わるまでは食事もとらないほど献身的に働いたので、いつも翌朝にはイターラは完璧な状態で出発できた。そして何よりも公爵の不屈の意志と優れた判断力と率先して事に当たる指導力によって、彼らは北京から巴里までの62日間1万kmの冒険の旅を成し遂げたのだった。