様々な断片から自動車史の広大な世界を菅見するこのコーナー。今回はACのその後の行く末を見てみたい。コブラでスポーツカーの頂点を極めた後のACは、迷走を続けたが、その復活に期待したい。
20世紀初頭に始まるACの歴史
ACの歴史は20世紀の初頭に始まる。ある時期には、英国で現存する最も古くからの自動車メーカーであることを誇示していたほどだ。ACの社名の由来は『Autocarries』であり、その名のとおり、配達用小型車の生産から始まった。第1次世界大戦前からは、ベーシックなサルーンカーの生産を始めたが、戦後にはその傍ら、スポーティーなボディを載せたモデルも用意している。このことから、しっかりと自動車の需要の時流に乗る能力を持つメーカーだったようだ。
最初はアンザーニのような独立したエンジン・メーカーから供給を受けていたが、1925年からは自社で開発したエンジンを搭載するようになった。4気筒と6気筒のアルミブロックのOHCエンジンが開発され、6気筒エンジンは戦後にまで生き延びている。第2次世界大戦までのACは、とりたてて個性の際立つクルマではなかったが、1929年の世界大恐慌後にカンパニー・オーナーが変わり、新しい経営者となったハーロック家が、ジョン・トジェイロが生み出したレーシングカーに目をつけ、それをスポーツカーに仕立て直したことで、ACは今日までその名を残すことになった。
1953年に発表された新しいACは『エース(Ace)』と呼ばれた。第2次世界大戦終結後の間もない頃には、戦前型の焼き直しばかりが生産されていたが、この頃には各社の新たに開発された戦後型モデルが出揃ってきた。ただしACエースのエンジンは、1927年に開発した6気筒エンジンの改良型だったが、1956年からはブリストル製6気筒エンジンの供給を受けるようになった。ブリストルのエンジンはBMW328のエンジンが元になっており、これも戦前に開発されたが、より高性能な名エンジンとして長い寿命を持つこととなった。
ACブリストルはロードホールディングが優れ、調和のとれたスポーツカーであったし、レースでも2000ccまでのクラスで活躍した。スポーツカーの古典として、不朽の評価を受けるにふさわしい。
1950年代はスポーツカー・レースの隆盛期だった。1949年に再開されたル・マン24時間レースには、早くもMG、ヒーリー、ベントレー、アルヴィス、HRGなどが出場した。その中でも、デビッド・ブラウンという新しいオーナーの下で新しいモデルを開発したアストンマーティンはワークスカーを多数送り込んだ。翌1950年は2台のタルボ・ラーゴに続いてアラードJ2が入り、1951年にはジャガーCタイプが優勝。ジャガーCタイプは、1953年にも優勝し、後継モデルのDタイプは1955年、1956年、1957年と3連勝を遂げている。
そしてACのル・マンへの挑戦は、Dタイプが3連覇した年の1957年から始まった。2リッタークラスながら善戦し、そのポテンシャルは明らかだった。キャロル・シェルビーがACに目をつけたのも、スポーツカー・レースでの活躍があってのことだったのだろう。1961年10月にキャロル・シェルビーが、戦前からテームズ・ダットンにあるACの本社を訪れ、コブラの計画が始まった。ACにとってもブリストルからのエンジン供給が終わろうとしていたのでちょうどいい時期だった。