フェラーリの問題はむしろ内部に
続く1965年には、初年度での惨敗から体制を変革/強化したフォードが緒戦のデイトナで優勝した。しかし、実質的にトップでゴールしたのはこの1戦に終わり、フェラーリが全11戦中7勝を獲得した。フェラーリは改良型の275P2や365P2に加え、FIAがGTとしては認可しなかった250LMも投入してフォードを駆逐したのだ。ル・マン24時間では6連勝、通算9回目の優勝を飾り、またF1でもサーティースがワールド・チャンピオンを獲得した。
1972年に創業したブルムは初期には馬車、蒸気自動車のような自 動車史の黎明期を物語るような博物館的製品を売り出している。家 族による少数精鋭の生産で、今に至るまで100%メイド・イン・インタリ アの矜持を持ち続けている。これはブルムのマニア心をくすぐる 330P4のセット。
1966年には、しかしフォードも手強かった。3年目の挑戦にして、体制もよく機能するようになり、ル・マン24時間の初優勝を始め多くの優勝を遂げた。それでもフェラーリは、モンツァやスパで優勝を遂げたが、フェラーリの問題はむしろ内部にあった。監督のドラゴーニは、彼が連れてきたロレンツォ・バンディーニを極端に依怙贔屓し、サーティースをこれ見よがしに冷遇したのだ。神学生のように穏やかなサーティースもさすがに堪忍袋の緒が切れる事態が生じて、ル・マンの予選を前にしてスクーデリアを立ち去ったのだった。ようやくエンツォも問題を理解し、ドラゴーニを解任。そして、かねてから注目していたフランコ・リーニを口説き落として、スクーデリアの監督に迎え入れた。
ピエトロ・ドローゴが率いたカロッツェリア・スポーツカーズでは、マセラティ151やスクーデリアを離反したビッザリーニによるフェラーリの過激な改造モデルが制作されていたが、その後スクーデリアからの発注で330P3とP4の全てのモデルが生み出され た。この本はドローゴについて綿密な研究が報告されており、近年出版された。
1967年はフェラーリの逆襲の年だった。マウロ・フォルギエリは250Pからの最終進化型330P4を開発した。そして、緒戦のデイトナ24時間では見事1-2-3フィニッシュを飾った。ル・マン24時間レースでは惜しくも2-3位となったが、フォードと拮抗した勝負を展開。見事この年のメーカー選手権のチャンピオンを獲得している。思えば、エンツォが最初のフェラーリをこの世に送り出した1947年から、ちょうど20年目の栄冠であった。
このように1964年から1967年までのフォードGTとの戦いを見ていくと、総合的にはフォルギエリが開発したフェラーリPに軍配が揚がることになるのだ。