様々な断片から自動車の広大な世界を管見するこのコーナー。今回はル・マン初優勝から50周年を迎えたフォードGTが、どんなバックグランドから生まれ、どんな影響を及ぼしたのかを見ようと思う。ヨーロッパとアメリカの自動車技術の融合から生まれたフォードGTは、インターナショナルな自動車文化到来の最初のビッグウェーブであった。
フォードGTは1960年代のビッグウェーブだった
第2次世界大戦後の世界は大きく変質したが、アメリカにおけるモータリゼーションも大きな変化があった。1944年にSCCA(Sports Car Club of America)が設立されて、それまでのホットロッドやストックカーレースやミジェットレースとは異なるヨーロッパ的なレースが開催されるようになり、1947年に創刊した自動車雑誌ロード&トラックは、ヨーロッパ車、特にスポーツカーを毎号詳細に紹介するようになった。第2次世界大戦後の復興期にはヨーロッパの自動車メーカーにとってアメリカは最大のマーケットで、イギリスではジャガーにしてもMGにしても、その生産台数のほとんどがアメリカへ輸出された。イタリアからはマセラティやフェラーリはもとより、モレッティやシアタのような小さなメーカーまでもが、スポーツカーやレーシングカーを輸出した。こうしてアメリカ車しか知らなかった一般のアメリカ人たちが、第2次世界大戦を境にしてヨーロッパのスポーツカーを発見したのだ。
イタリアの今はなきミニカーメーカー『Bang(バン)』の限定版で、1966年ル・マンのフィニッシュ・シーンのジオラマ。オーナー自らがエンスージァストだったバンはマニアックな車種構成で愛好家に訴えかけた。ミニカーコレクターよりもレースのヒストリアンを喜ばせるモデルが多かった。もともとがBoxから分離したメーカーで、その流れのもうひとつが『ベストモデル』である。
戦後のル・マン24時間レースにアメリカ製のレーシングカーで挑戦したブリックス・カンニンガムは、戦前からヨーロッパのブガッティやアルファロメオなどの高性能スポーツカーに親しむことができた国際的な素養のあるアメリカ人だった。5年に渡る挑戦で最高位は3位を記録している。戦後のアメリカにてヨーロッパのスポーツカーでレースを始めたアメリカ人たちは、そんな大先輩のカニンガムを見習うようにして、やがて自ら開発したクルマでヨーロッパのレースに挑戦したのだった。
フェラーリやマセラティでレースを始めたランス・リベントローのスカラブ、ジム・ホールのシャパラル(ヨーロッパで走るときには地元テキサスのナンバープレートを付けて走った)、ダン・ガーニーのイーグル(彼のチームはオール・アメリカン・レーサーズと名乗った)がそうだった。そして、MGやジャガーでレースを始めたキャロル・シェルビーも、英国のジョン・ワイヤーに才能を見込まれてアストンマーティンのワークス・ドライバーとなり、見事1959年のル・マンで優勝を獲得し、その後、引退すると英国のACやクーパー・モナコにフォードV8エンジンを搭載したスポーツカーやレーシングカーを開発した。