青梅街道をひたすら走り多摩川の源流域
2012年に中央道の笹子トンネルが事故で長期にわたって通行止めとなった時、混雑する国道20号の迂回路として、 多くのクルマが通り抜けていった柳沢峠。東京都心の新宿と甲府盆地とを険しい山越えで結ぶ青梅街道は、関所を通らずに済むことから、 江戸時代には 「甲州裏街道」 と呼ばれていた。
幕末の甲州裏街道を舞台に物語が始まった中里介山の大長編時代小説『大菩薩峠』。
400番以上の大きな番号を持つ国道は、東京都内には3本しかない。そのうちの2本は第三京浜(国道466号)と圏央道(国道468号)で、一般道の区間は第三京浜起点の環八・瀬田交差点から玉川ICまで、環八(都道311号)と重複するわずか2kmほどに過ぎない。そんな意味では、八王子から甲府盆地へと至る国道411号は、都内では唯一と言ってもいい、とても貴重な(?)400番台の国道なのである。
昭和32年(1957年)の竣工当時は世界最大の水道用貯水池だった奥多摩湖。国道411号はその北岸を抜けていく。
東京に住んでいても、411号という国道番号は「見たことも聞いたこともない」という人が多いはず。しかし、この道筋がかつての青梅街道を辿っていると聞けば、ほとんどの人が「なるほど!」と合点してくれるに違いない。
現在、青梅街道(八王子以東は都道5号)の起点となっているのは新宿3丁目交差点。江戸時代の初め、このあたりには日本橋から発する五街道のひとつ、甲州街道の第一宿「内藤新宿」が作られ、その追分から脇往還の青梅街道が分岐していた。かつての宿場町の痕跡はまったくといっていいほど消えてしまったが、唯一、創業が康正元年(1455年)と伝えられる老舗〝追分だんご本舗〟だけはいまも健在である。
東京方面からは深い渓谷地帯を抜けていく青梅街道。それだけに峠を越えた途端に姿を見せる富士山には感動。
そもそも青梅街道は、慶長11年(1606年)の江戸城大改築に際して、質の良い青梅の石灰を運ぶために整備が進められた道である。武蔵野台地をまっすぐに横切り、青梅から先は多摩川の流れに寄り添うように関東山地へと分け入っていく。その道のりは現代の国道411号を走っていてもたっぷりと味わうことができる。
江戸時代の青梅街道が越えていたのは標高1897mの大菩薩峠。日本百名山のひとつ、 大菩薩嶺 (標高2057m)のすぐ南の鞍部を越えていくルートである。
昔の映画看板が立ち並び、レトロな雰囲気があふれる青梅の町並み。
一方、青梅街道の南側を並走する甲州街道(現在の国道20号や中央道が辿る道筋)には、標高こそ低いものの小仏峠 (標高548m)と笹子峠(標高1096m)というふたつの峠越えがあり、五街道ならではの取り締まりの厳しい関所も置かれていた。距離で比べても、内藤新宿から甲府までの道のりは、青梅街道の方が2里(約4km弱)ほど短いため、この「甲州裏街道」を行き来する人は決して少なくなかったという
国道411号の山梨県側は大菩薩ラインという愛称も付いている。