山深い東京の向こうに富士の絶景が待っている
都心から近いこともあって、冬場でも大勢の登山客が行き交う大菩薩峠。ここから稜線上の登山道を行けば、1時間弱で大菩薩嶺の山頂にも立てる。
「うちの旅館の前に細い砂利道が残っているだろう。あれが昔の青梅街道なのさ。ここを自動車が走るようになったのは、戦後もずいぶん経ってからのこと。オレが子どもの頃は、まだ米や塩、炭や竹かごをいっぱい積んだ馬方さんたちが行き来していたんだよ」
旅館業は子どもに任せ、現在は地域奉仕活動などに取り組む林金次さん。
こんな話を聞かせてくれたのは、裂石温泉・雲峰荘のオーナー、林金次さん(85歳)である。林さんは小説『大菩薩峠』の作者、中里介山の記念館設立にも多大な尽力をした地元の名士であるが、ただし、彼が子どもの頃に目にした青梅街道というのは、すでに大菩薩峠を越えるルートではなくなっていた。
『大菩薩峠』は30年近くに渡って新聞連載された時代小説。介山記念館は現在休館中のため、見学したい人は事前に雲峰荘へお問合せを。
多摩地域と甲州をつなぐ裏街道として、江戸時代を通じて人や荷が盛んに行き来した青梅街道は、険しい山道のため、冬場や悪天候の時には遭難者が出ることも珍しくなかったという。そのため、明治11年(1878年)に大菩薩嶺の北側を大きく迂回する新道が作られたのである。
このとき開削されたのが標高1472mの柳沢峠。大菩薩峠に比べると400m以上も低い稜線を越えていくため、冬季でも比較的安全に通行でき、勾配もさほどきつくなかったため、現在の国道411号も開通当時とほとんど変わらぬ道筋を辿っている。
JR青梅線の終点、奥多摩駅から奥多摩湖畔へと延びる“奥多摩むかし道”には昔の青梅街道の面影が残る。
「いまはまだ登山口までクルマで簡単に行けるよ」と林さんに教えられ、今回われわれは大菩薩峠まで徒歩で登ってみることにした。昔の旅人の苦労を少しでも味わってみようと思ったのだ。
大菩薩峠の甲府盆地側、県道201号と218号が交わる上日川峠(※)にクルマを置き、整備の行き届いた登山道をのんびり歩き始める。 登山口から約1時間、 木々の隙間から峠の稜線が見え始める頃には、登山道のところどころに雪が現れるようになる。12月下旬、暖冬の影響もあって、麓の裂石温泉はもちろん、柳沢峠でも雪の気配はまったくなかっただけに、標高の違いを実感する。
多摩川の源流のひとつ、小菅川から流れ落ちる雄滝。大菩薩峠の東側に降った雨は東京湾へと流れていく。
勾配のきつくなった登山道をさらに20分ほど登り詰めると、急に視界が開け、背の低いクマザサに覆われた大菩薩峠へと出た。時刻は午後3時過ぎ、陽射しはまだたっぷりと降り注いでいたが、山小屋の壁に掛かる温度計はマイナス2℃。草鞋ばきで、ろくな防寒装備もない旅人にとっては相当厳しい山越えだったに違いない。
ただし峠からの眺めは本当に素晴らしい。正面には雄大な富士がそびえ立ち、眼下に広がる甲府盆地の向こうには、南アルプスや八ヶ岳が峰々を連ねている。
山梨県の小菅村や丹波山村には、水源地として東京都水道局が管理する手入れの行き届いた山林が広がっている。
展望の広がりという点では大菩薩峠に一歩譲るものの、国道411号の柳沢峠から眺める富士の姿もなかなかのものだ。青梅街道をひたすら西に向かって走り続け、都会から田園、山村、深山幽谷と急変していく東京の風景に驚きつつ、峠を越えて富士の絶景と出会う……。たまにはこういう下道の旅もいいものだと思った
※県道201号は12月中旬から、県道218号は1月4日から、ともに4月中旬まで冬季閉鎖となります。