山の集落で暮らす人々が行き来していた稜線の道
そもそも林道というのは、山の木々を伐採したり、運搬するためのもの。ただし、房総半島を東西に横切る嶺岡林道の成り立ちはちょっと違っている。それを教えてくれたのは、重要文化財・旧水田家住宅のお隣で暮らす川崎一作さんだった。昭和2年(1927年)生まれの川崎さんは今年89歳になる。
「この林道が開通したのは、水田さんが大蔵大臣の最後の任期を務めていた時だから、昭和40年代の後半ごろ。それ以前は稜線伝いの細い山道だったんだが、山から薪炭を運び出したり、鴨川から魚売りが来たり、競りに出す馬が行き来したりと、けっこう人通りの多い道だったんだよ」
鋸山(日本寺)の頂上近くまで延びる鋸山道路。通行料は往復1,000円とやや高めだが、2人以上ならロープウェーよりも割安。
大蔵大臣の水田さん……と言われても、読者のほとんどはピンとこないだろうが、筆者の場合、小学校の同級生に水田君(あだ名は当然「大蔵大臣」)というのがいて、その思い出もあって何となく記憶に残っていたのだ。あとで調べてみると、第一次池田内閣から第三次佐藤内閣まで大蔵大臣を7回も務め、「大蔵大臣といえば戦前は高橋是清、戦後は水田三喜男」とまで評された有力政治家だったという。
ちょっと話がそれてしまったが、記憶の糸をたどるように語り続ける川崎さんの話は、実に興味深いものだった。
東京湾の夕やけ。波の向こうに見えるのは浦賀水道を航行する自衛艦。晴れた日には富士のシルエットも大きく浮かび上がる。
大蔵大臣の水田さん……と言われても、読者のほとんどはピンとこないだろうが、筆者の場合、小学校の同級生に水田君(あだ名は当然「大蔵大臣」)というのがいて、その思い出もあって何となく記憶に残っていたのだ。あとで調べてみると、第一次池田内閣から第三次佐藤内閣まで大蔵大臣を7回も務め、「大蔵大臣といえば戦前は高橋是清、戦後は水田三喜男」とまで評された有力政治家だったという。
ちょっと話がそれてしまったが、記憶の糸をたどるように語り続ける川崎さんの話は、実に興味深いものだった。
道の駅きょなんから山側に少し入ったところにある通称・水仙ロード。桜の名所としても知られる。
川崎さんの子ども時代、このあたりには広大な牧草地が広がり、湧き水の豊富な谷筋には無数の棚田が点在していたという。杉林ばかりが続く現在とは、まったく違う風景があったのだ。そして、牧畜と棚田での米作りで生計を立てながら、現在では信じられないほど多くの人が山の集落で暮らしていた。そんな人たちがごく当たり前に行き来していたのが起伏の少ない稜線の山道。そこを現在の嶺岡林道はなぞっている。
戸面原ダムの近くにある素掘りトンネル。砂岩質の房総半島にはこうした古いトンネルが数多く残っている。
ところで、生まれ故郷に林道を建設した大臣などと聞くと、列島改造の田中角栄氏のような利益誘導型の政治家を思い浮かべる人が多いかも知れない。しかし、実際の水田大臣はきわめて清廉な政治家だったそうだ。
このあたりの農家の暮らし向きが厳しくなったのは、国の林業政策に従って山間部の田畑や牧草地に杉の植林を始めてからのこと。そんな農家を助けるため、水田大臣の音頭取りで建設されたのが嶺岡林道なのだという。
石橋山で平氏軍に敗れた源頼朝が上陸したと伝わる鋸南町の竜島海岸。ここから頼朝が再起したことを考えると、当時から軍馬の飼育は盛んだったのかも知れない。
「責任感の強い人だったから、故郷の農家が困っているのを見過ごせなかったんだろうなぁ。でも、それ以外は国政にかかりっきり。村の道路や学校はいつまでもボロのまんまだったよ(笑)」
旧水田家住宅の入口から3kmほど鴨川方面に向かって走ると林道脇にパラグライダー場があり、北側の視界が大きく開ける。そこに広がるのは、川崎さんが山道を歩きながら目にしていたのと変わらない眺めである。
村の小学校の偉大なる先輩、水田大蔵大臣にまつわる話をいろいろと教えてくれた川崎一作さん。
眼下に見えるひと筋の道は県道34号・長狭街道。現在、鋸南町と鴨川市の間を行き来するクルマのほとんどは、この川沿いの道を走り抜けていく。
黒光りする床板が長い歴史を感じさせる旧水田家の広間。水田大臣が創設した城西国際大学が管理している。