誰もが知る有名なメーカーが出していたのに、日本では知名度が低いクルマを紹介する連載、【知られざるクルマ】。第27回は、英国では多数派の生産車でも、日本に上陸した台数が少なかった・英国でさえ人気がなかったなどの諸事情により、日本では知られていない「マイナー英国車」を取り上げる。なお、注意点としては、英国車の世界には小さなコーチビルダーが作った「知られざるキットカーやスポーツカー」は星の数ほどあるため、今回の記事ではそれらを含んでいないことだ。あくまでも、この連載の趣旨のひとつである「現地では知られ、日本では知られていない」クルマにスポットを当てたい。
ミニやADO16だけじゃない!? 「知られざる世代」の英国製サルーンとは
英国車といえばミニ・ジャガー・ロータス・ローバー・ロールスロイス・ランドローバーといった著名な車種・メーカーが多数あり、「ヴァンデンプラス・プリンセス」や「オースチン1100」などの「ADO16」と呼ばれるモデル、ハリー・ポッターでもおなじみの「英国フォード・アングリア」、ラリーで活躍した「フォード・エスコート」なども思い出される。
しかし、それは英国車という深い深い幽谷における、ごく一部に過ぎない。その奥……とくに1970年代・80年代の実用車・量販車たちの中には、日本ではあまり知られていない、もしくは著しく知名度が低いクルマが多いのだ。そこで今回から数度にかけ、そんな時代の「マイナー英国車」をご紹介しよう。第一弾は、「1970年代のオースチンブランドのサルーン」である。
と、説明に入る前に、大前提として、オースチンを作っていた会社のことを記そう。20世紀初頭に創立されたオースチンとモーリスは、のちにそれぞれ「オースチン・グループ」と「ナッフィールド・オーガニゼーション」を形成。大衆車市場で覇を競っていたが、英国に進出した外国資本メーカーに対抗すべく、1952年になって合併を行い「BMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)」を発足した。この合併で後者グループ内の「モーリス」「ライレー」「ウーズレー」「MG」などがBMC傘下に入り、オースチンブランドを基幹とした、同一車種のバッヂ変え(いわゆるバッヂエンジニアリング)車が生まれるようになった。
その後1960年代に入ると、高級車メーカーの「ヴァンデンプラ」「ジャガー」などもグループ入り。さらに1968年には「ローバー」「トライアンフ」「ランドローバー」などを持っていた「レイランド・グループ」と合併して「BLMC(ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション)」が発足。しかし業績悪化のために1975年に国有化が行われ、社名も「BL(ブリティッシュ・レイランド)」となった。
【オースチン1800/2200】長いホイールベースが特徴の「陸の蟹」
1950年代末に現れた「オースチン・ミニ」(ADO15。当初の車名は「オースチン・セブン」)は、アレック・イシゴニスが手がけた横置きFF、長いホイールベースのモノコックボディ、ハイドラスティックサスペンションなどの革新的な新機軸を生み出し、小型車に新しい時代を拓いた。その技術は広くBMCのクルマに展開されるようになり、1963年に前述のADO16が、続いて1964年の「オースチン1800(ADO17)」でもそれを採用。広い車内・利便性・当時では珍しいFF中型車という設計が評価され、第2回ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。1966年には、細部を変えた兄弟車「モーリス1800」、翌年には「ウーズレー18/85」も追加され、バリエーションを拡充。オースチンとモーリスは大衆車、ウーズレーは高級車ブランドのため、その格に応じた作り分けがされていたのは、多くのBMC車と同じだった。
ピニンファリーナがデザインしたボディは、全長に対して異例とも言える長いホイールベースをうまく処理して、冗長さを懸命に少なくしていたものの、それでもやはり「写真を引き伸ばしたようなフォルム」は異質で、評価は芳しくなく、英国では「陸の蟹(LandCrab)」というあだ名もついた。ミニを設計のベースとしたため、ステアリングホイールを抱えて乗り込むミニの姿勢をもそのまま引き継ぎ、さらにステアリングが異様に重かったこと、信頼性も低かったことなどの不評が重なり、BMCの予想よりも売り上げは伸びなかった。メーカーもそれに対して改良を重ね、1968年に「マークII」、1972年には「マークIII」へと発展させている。
マークIII発売と同時に、ADO17に2.2L直6エンジンを積んだ「オースチン2200/モーリス2200」、および「ウーズレー6」が追加された。「オースチン・マキシ」(後述)用の直4SOHC「E型」エンジンに2気筒を追加して開発され、なんと横置きに搭載していた(構造上、そうするしかないのだが)。横置き直5は例が多少あるが、直6になると珍しい存在だ。他にはボルボが採用した程度だろうか。
なお、このエンジンは、1970年から豪州市場向けにADO17をベースに作られた「オースチン・キンバリー/タスマン」に先行して搭載されていたことも、付記しておこう。
ADO17の生産は1975年に終了したが、結果として見ると、ADO17は成功作にはならなかった。ライバルの中型車は保守的だったが、むしろ市場ではそれが求められており、先進的な設計が生んだ構造やデザインは、マイナス要素に働いてしまった。一方、直6を搭載した上級モデルとして見た場合でも、大型車に比して車体は小さく、高級車としては中途半端だったのだ。後継者は、「BL プリンセス1800/2200」という、これまた悲しい宿命を背負ったクルマ(涙)だが、こちらについても、次回以降の連載で書いていきたい。
【オースチン・マキシ】 意欲作だったが売れなかった、悲運の実用車
1969年、ADO16とADO17の中間車種として「オースチン・マキシ」(ADO14)がデビューした。このクルマにも、当然ミニ譲りの技術が盛り込まれていた。マキシの名称は「ミニの対語」で、その名の通り車内はとても広かった。さらにリアには、ライバル「ルノー16」の影響を大きく受けたテールゲートを備えており、利便性も大きく向上していた。また、ミニ同様のメカニズムながら、エンジンは使い慣れたお馴染みのOHV「A 型」や「B型」ではなく、SOHCを採用した新開発の「E型」1.5Lとしたほか、BLMCでは初となる5段マニュアルも搭載されていた。
そんな意欲的なマキシだったが、メーカーの意に反して販売は伸び悩んだ。ADO17からドアを流用したことでスタイリングの新鮮さを欠いたこと、せっかくのSOHC+5速ギアも、アンダーパワー・ギアチェンジのフィーリングが劣悪と評されてしまったこと、価格がライバルより高かったことなどが理由だった。メーカーも排気量アップや高出力化などで対応したものの改善は見られず、1980年に「マキシ2」に発展したのち、1981年に生産を終了した。後継車は、日本でも販売された「オースチン/MG・マエストロ」だ。
【オースティン・アレグロ】ずんぐりむっくりなスタイルの、ADO16の後継車
オースティン1100/1300をはじめとしたADO16ファミリーは、粘るエンジン、好ましいサイズに広い室内、乗り心地の良さ、大衆車から高級仕様までのワイドなバリエーションなどから、ベストセラー車に輝いた。しかし1970年代に入るとさすがに旧態化も目立ってきたため、その後継モデル「オースチン・アレグロ」(ADO67)が1973年に登場した。この頃になると乱立していたブランドの整理が進み、アレグロはオースチンとヴァンデンプラブランドのみで展開されている。アレグロの設計は基本的にADO16を引き継いだが、サスペンションは窒素+オイルを用いたハイドラガスに変更されており、簡潔な構造ながら優れた乗り心地を提供した。
アレグロの特徴は、甲虫のようなずんぐりむっくりとしたスタイリングだった。デザインを担当したハリス・マンは、当初ウェッジの効いたスタイリッシュな姿を提案していたが、「E型」エンジンやヒーター機構など、他車種のコンポーネンツを流用したかったメーカーはその案を採用しなかった。そのためボンネットの高さが増し、コロンとしたスタイルになってしまったのだ。一見ハッチバック車に見えるが、リアガラスは固定式で、通常のトランクリッドを持つ「セダン」なのも、ADO16譲り。テールゲートは、1975年に追加された「エステート」のみが備えていた。
BLMCの期待を背負ったアレグロだったが、奇妙なスタイリング、奇妙な楕円形ステアリングホイールは市場から受け入れられなかった。メーカーもこれを打開すべく、1975年にマイナーチェンジを行って「アレグロ2」を送り込んでいる。リアシートの位置を直して、ADO16よりも車内が狭いという批判に対応した。さらに1979年には、メッキ部を減らし、ウレタンバンパーやエアダムを装着して1980年代的モダンさを得た「アレグロ3」へと進化。ダッシュボードも変更されイメージを一新した。とはいえ、1973年発売のアレグロはいささか古く、1982年についに生産を終えている。アレグロの後継車も、「オースチン/MG・マエストロ」だった。
【オースチン 3リッター】中型車を大きくして誕生した、薄幸な高級車
ラストは、1960年代末におけるオースチンの最上級車「3リッター」(ADO61)である。「オースチンA110ウェストミンスター」の跡を継ぐべく、1967年に登場した。エンジンは2.9Lで、「A99/A105/A110ウェストミンスター」や「ヒーレー3000」などにも搭載された「C型」だった。ハイドラスティックサスペンションによる優れた乗り心地を誇る、全長4.7mの大柄なFRサルーンだ。
しかしオースチン 3リッターも、この記事内の他車種に漏れず、失敗作に終わった。生産台数は1万台に届かなかったのである。その理由に、まず外観が挙げられる(これも……涙)。FRなのにFFのようなスタイリングは、キャビンのベースをADO17としたためで、ホイールベースは2.9mもあった。ドアすらも「陸の蟹」ことADO17から流用されていたほどだ。そのためオースチン3リッターは、「陸のロブスター」という、嬉しくないあだ名すら持っていた。デザインも、時代的に見て古く感じられた。しかもBLMCの傘下には、ローバーP5やトライアンフ2.5など、魅力的な大型モデルが用意されており、3リッターの販売を阻んだ。
評判はイマイチで地味だけど滋味に溢れる、愛すべき1970年代のマイナー英国車
かつては栄華を極めた英国の自動車業界だったが、1960年代に入ると、労働運動の増加、経済成長の伸び悩み、勤労意欲・社会的活力低下による「英国病」に罹って、次第に衰退していった。そんな時代に生まれ、作られたクルマは、開発意欲はあるものの設計が中途半端だったり、コスト削減に主軸を置きすぎたり、故障が多かったり、クルマ自体に魅力がなかったり、妥協の結果生まれた製品だったり、と苦しい台所事情を感じさせる。だが、「暗黒時代」とまで称される、そんな時代のクルマだからこそ好むファンも多いし、逆に愛を込めて揶揄をされたりされる対象にもなっている。そのため、暗黒時代の英国車は、昨今ブーム(?)の「ざんねんな○○」というジャンルにもあてはまるのではなかろうか。
この「マイナー英国車列伝」は、全4回構成を企画しているのだが、そんな「ざんねんな英国車」はまだ何台か出てくるので、読み終えた頃には、あなたの心にも「マイナー英国車への愛」が芽生えてしまうかもしれない。
次回は、筆者が思う「ざんねんな英国車」二大巨頭の出番!どうぞお楽しみに。
この記事を書いた人
1971年生まれ。東京都在住。小さい頃からカーデザイナーに憧れ、文系大学を卒業するもカーデザイン専門学校に再入学。自動車メーカー系レース部門の会社でカーデザイナー/モデラーとして勤務。その後数社でデザイナー/ディレクターとして働き、独立してイラストレーター/ライターとなった。現在自動車雑誌、男性誌などで多数連載を持つ。イラストは基本的にアナログで、デザイナー時代に愛用したコピックマーカーを用いる。自動車全般に膨大な知識を持つが、中でも大衆車、実用車、商用車を好み、フランス車には特に詳しい。
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