明日のクルマを創る人たちのために
夏休みといえば、社会科見学のシーズン。この夏、イタリア在住の筆者が選んだのは、つい訪問する機会を逸していたトリノの「ヘリティッジ・ハブ」である。
トリノのステランティス・ミラフィオーリ工場は、フィアット時代から数々の人気車種を生み出してきた歴史的生産拠点である。今日では「マセラティ・レヴァンテ」と「フィアット500e」が造られ、近い将来は環境対策車の主力工場としてグループ内で新たな役割を果たす計画がある。研究開発拠点や関連部門などを含めると、構内で働く従業員数は2万人を数える。
「ヘリティッジ・ハブ」はその一角にある。施設を説明するには、まず「FCAヘリティッジ」について触れる必要がある。旧FCA時代の2015年に発足した新部門であるそれは、いずれも従来からトリノ市内に存在した「フィアット歴史資料館」、ミラノ郊外アレーゼの「アルファ・ロメオ歴史博物館」のコレクションも管理する。
一般に提供するサービスとしては「生産証明書」「真正証明書」といったサーティフィケート類の発行、そして「レストレーション」がある。
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さらにミッレミリア、タルガ・フローリオなどイベントへの参加、レストア済みヒストリックカーの販売、さらに歴代車用パーツ&アクセサリーのマーチャンダイジングも業務範囲だ。
そのFCAヘリティッジの本拠地として2019年に誕生したのが、「ヘリティッジ・ハブ」とうわけである。フィアット、ランチアそしてアバルトを中心に約300台の歴代車両やコンセプトカーが保存されている。
ヘリティッジ部門を率いるのはロベルト・ジョリート氏である。1989年チェントロ・スティーレ・フィアットに入社した彼は。1998年「ムルティプラ」、2007年「500」、2011年「パンダ」、そして2014年「500X」などのデザイン・ダイレクションで知られてきた。ヘリティッジ部門には、発足時から関与している。ちなみに演奏歴を学生時代に遡るベーシストとして、ジャズ・フェスティバルのステージにも立つ。
ヘリティッジ・ハブの建物は、かつて「オフィチーナ81」と呼ばれた工場棟をリニューアルしたものだ。
ただし館内に入った途端、筆者が最初に関心を示したのは、失礼ながらクルマではなかった。片隅に置かれた飲料の自動販売機であった。本来なら商品写真があるべき場所に、エンジンを正面から撮影した写真が収められている。
面白がって観察していると、ジョリート氏が「これは何のエンジンでしょう?」と聞いてきた。
ツインカム、ドライサンプであることはわかったが、筆者が答えられないでいると、ふたたびジョリート氏が「ヒント1。“空飛ぶクルマ”ですよ」と、にこやかな笑いを浮かべて教えてくれた。答えは、アリタリア航空カラーの「フィアット131アバルト・ラリー・グループ4(のエンジン)」だった。名デザイナーから、いきなりクイズを出題されるとは、素晴らしい歓迎であった。
歴代生産車とともに感動的なのは、かつてトリノ、ボローニャ、そしてジュネーヴなど各国のモーターショーでスターを務めたコンセプトカーたちとの再会であった。それらのデザインは、今日でも新鮮さを喪失していない。
同時に驚くべきは、それらの経年変化が少ないことだ。一般的にショー期間中のみの見栄えを考えて造るコンセプトカーは、市販車よりも劣化が激しい。往年携わったトリノ職人たちの心意気がひしひしと伝わってくる。
参考までに、そうしたコンセプトカーの1台、2003年「ランチア・フルヴィア・コンセプト」は、市販が強く望まれた1台だった。当時フィアット幹部で、現在ルノーCEOを務めるルカ・デメオは、量産を見送ったことを「私の仕事上、最大の後悔のひとつ」と回想している。
ジョリート氏は「コレクターや愛好家だけでなく、学生を含め、次代のクルマ作りを担う人々にとって着想源となるものにしたい」と語る。
同時に彼は「ヘリティッジ・ハブは、私たちにとってポートフォリオなのです」と語る。すなわち、ブランドを語る巨大な履歴書というわけである。
施設は、一般的なミュージアムとは異なり、目下のところ団体のみ、かつ要事前予約で公開されている。だが思えば、ヨーロッパの長い歴史のなかで、今日に続く博物館や美術館の歴史が始まったのは、18世紀末のフランス革命以降である。それ以前は、教会や庁舎など作品が本来置かれていた場所で鑑賞するのが当たり前だった。
前述のとおり、ヘリティッジ・ハブは本当に工場だった建物である。モダンにリニューアルされているものの、えんえんと続く明り取りの窓、打ち放しのコンクリート床と、その上に作業領域を記した区画線の跡は、今すぐ工作機械の音が聞こえてきそうだ。そこにある大半のクルマが生まれた場所、もしくはそれに近い環境で愛でることができるこの施設は、自動車ミュージアム以上に正しい鑑賞環境といえまいか。
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