世界の注目を一身に集め速度記録にも007にも
トヨタ2000GTがベールを脱いだ瞬間、1966年東京モーターショーは異様な空気に包まれた。そこには、イタリアのスーパーカーやイギリスの高級スポーツカーもかくやと思わせる、いや、さらに鋭い鮫のような新型車の姿があった。
ボンネットの量感と引き締まったキャビンの比率など、オーソドックスなスポーツカーの文法そのもの。このように斜め後ろから眺めると、最も低さを強く感じさせられる。
低く長いボンネットの後ろにコクピットを潜り込ませ、なだらかに流れるファストバックにテールゲートを切り抜いた全長4.2mのクーペ。可能な限り低くスリークに削り込んだため、バッテリーやウインドウォッシャー液のタンクにも、フロントフェンダー上部や側面の小さな専用リッドを開かなければ手が届かないほど、ぎりぎりを攻めたパッケージングだった。ノーズが非常に低いので、ヘッドライトの高さを稼ぐためにリトラクタブル式を採用し、加えてグリルの両端に大径のフォグライトを埋め込んだフロントマスクも新鮮だった。さらに、その中身を知ると、驚きと喜びは何層にも膨らむのだった。
テールゲートは大きく上方に開く。
15インチホイールは専用のマグネシウムダイキャスト製。
大断面のバックボーンフレームは前後がY字型に広げられ、ダブルウイッシュボーンとコイルスプリングの4輪独立サスペンションを支えていた。そのフロントミッドシップに深く抱かれた直列6気筒の2.0Lエンジンは、ブロックこそクラウン用のM型に由来していたが、美しい結晶塗装のカムカバーに覆われ、3基のソレックス製ツインチョークキャブレターを輝かせたツインカムヘッドは、高性能エンジンに情熱を燃やすヤマハ発動機の力作だった。1120kgの重量に対する150psで最高速220km/hと発表されたのも、当時の日本車の常識をはるかに置き去りにしていた。エンジンのほかにもヤマハの関与は深く、大量生産を旨とするトヨタに代わり、実際の生産も引き受けた。同系の日本楽器(楽器のヤマハ)との縁から、ダッシュボードやステアリングホイールは、ピアノ用の高級な木材から手作りされていた。
むくの天然木で作られたダッシュボードはヤマハ発動機の力作。
走りだしたトヨタ2000GTのフットワークは非常に鋭く、日米の数々のレースで勝利をおさめただけでなく、発売前年には谷田部テストコースを舞台として、13項目に及ぶFIA公認速度記録を樹立している。また、映画「007は二度死ぬ」(1967年)の日本ロケに際しては、撮影用として特に作られたオープン仕様も登場した。 ただし人気は人気でも、当時の価格は238万円と、クラウンの2倍ほどもしたから多くは売れず、337台を製造しただけで、1970年8月に舞台から退いてしまった。
ツインカムヘッドもヤマハ発動機の力作。
その後の日本では次々と新型スポーツカーが話題をさらったが、ほとんど誰も触れることのできない状態で不毛の荒野を疾走したクルマとして、今に至るもトヨタ2000GTの右に出る存在はない。
2000GTに先立って1965年に発売された「ヨタハチ」ことトヨタ・スポーツ800。大衆車パブリカの空冷フラットツインをはじめプラットフォームを流用、軽く素直な走行感覚が大きな魅力だった。