1957年に生まれた私が余生を共に過ごすクルマを選ぶとすれば…【GALLERIA AUTO MOBILIA】#003

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誰でも自分が生まれた年に起こった出来事には興味があるだろう。とくにクルマ好きならば、自分の誕生年に作られたクルマに関心を持つ人は多いようだ。今回は、そんな自分と同じ年に生まれたクルマにまつわるエピソードである。

1957年に生まれて

私がクルマに興味を持つ年頃になり、憧れるようになったドリームカーは、その時代の最新のスポーツカーであるフェラーリ365GTB/4デイトナだった。プレクシ・グラスを車幅いっぱいに使ったフロントのデザインからテールのデザインまでが斬新で、何時間も何時間も、雑誌に載った写真を夢見心地で眺めていたものだ。今すぐ、手に入れたいと願っていたが、それは叶わぬ夢だった。その頃から長い年月の間に、いったい、どれだけの数のクルマたちに恋い焦がれて来たことだろう! デイトナは最初に恋に堕ちてから、20年後には手に入れることができたのだが、しかし、時間の経過が、恋心を冷却してしまい、それほどの執着心はもはや抱いていないことに気がついたのだった。若い頃の私はクルマに魂を売ってしまったような人間だったから、他のすべてを犠牲にして、クルマを購入していた。でも、振り返ってみると、いつだって一番欲しいクルマを手に入れることはなかったように思われる。そのクルマへの恋心の絶頂期と、手に入れるタイミングがいつもずれていたのだ。

ところで、私には若い頃から、どういうものか早く余生と呼ばれる境地に達したい、という気持ちがあり、自分にとって最後のクルマが何になるだろうか、という夢想をしてきたが、いつもポルシェ356が候補のひとつとなっていた。19歳の頃に初めて路上で356を見かけたが、今なおその時のことを鮮烈に覚えているくらい感激したのだ。それ以来、ポルシェ356にもずっと憧れているが、未だに入手する機会を逃しているのは、きっと余生のクルマという意識があるからにちがいない。理想の356について考えると、356Aがいちばん好ましく思えて、それならば、いっそ自分の誕生年と同じ年に生産された356Aを購入したい、と願うようになったのだ。本気で探せば、とっくに手に入れることができただろう。でも、最後のクルマという意識、よく言う、クルマ遍歴双六での“上がり”のクルマという意識のせいだろうか、これまで一度も巡り逢うことがないままに過ぎてしまった。
余生を一緒に過ごす、私と同じ年齢のクルマの候補には、もう1台あって、それはフェラーリ250GTカブリオレのSr.1である。30代の頃に、買おうと思えば買うことができる機会が2回あったが、そういう決断をおろさなかったのは、これも最後のクルマとしてとっておきたい気持ちがあり、まだ時期尚早という気持ちが働いたのだろう。

人間の脳への刷り込み、というのは恐ろしいもので、なぜか、この2台が私の最後のクルマという気持ちがずっとある。1957年に生産されたクルマなら、もっといろいろあるが、脳内で検討した結果が上記の2台なのだ。しかし、あまりにも長く思い過ぎたせいか、今ではその情熱は薄れてしまった、というのが本心である。
閑話休題。さて、今年2月のレトロモビルで、いろいろ興味を引くクルマの模型や本を持ってきている個人商店があった。そこで奥の棚に飾ってあった本が目に止まり、親父に手渡ししてもらって見せてもらったのが、今回紹介する1冊である。スイスで毎年発行されてきた自動車年鑑で、英語版のオートモビル・イヤーなら1970年代以降のものが、私の書架にも何冊かはある。しかしこれはフランス語版だ。親父は「これは新品だ。これの輸送用の段ボールの箱も綺麗な状態で附いてくるぞ」と言う。私の大好きなフィアットのタービンカーと、ルノー・エトワール・フィラントが表紙だったし、私の誕生年である1957年の年鑑ということに反応して、いわば自分へのプレゼントとして、200ユーロを支払い購入した。

ホテルでぱらぱらめくって、楽しんでいたが、意外に生産車の紹介記事は少なくて、その頃に話題になっていたガス・タービンカーについての技術的な記事や、カロッツェリアのショーカーの紹介にページを割いている。32~100ページ目までがそんな記事で、ホイヤーやオメガ、ロンジンなどの時計メーカーの広告が多いところにスイスで出版された本らしいところを感じる。101ページから最後の212ページ目までは、モナコGPやル・マンやミッレミリアなどのモータースポーツの記事なので、モータースポーツへのウェイトの方が大きいわけだ。
ミッレミリアは1957年で本来の形では終了したので、その年の記録と思って記載内容を追っていったら、1956年についての記事だった。1957年の春に発行された年鑑なので、内容は前年の記事であることに、私は今更のように気がついたのである。1955年のル・マンでの大惨事の後で、メルセデス・ベンツが撤退した翌年だったから、ル・マンではジャガーが優勝し、ミッレミリアではフェラーリが優勝し、GPではランチア・フェラーリとマセラティの対決となり、年間ランキングではランチア・フェラーリに乗ったファンジオとコリンズがチャンピオンと3位、マセラティに乗ったモスとベーラが2位、4位となっている。とても懐かしい時代が蘇る。……けれども、私が生まれた年の事柄の記事を求めるのなら、1957年ではなくて、1958年の年鑑を手にいれなければならない、というのが、今回のお話しの落ちなのである。

奥付を見ると、スイスのローザンヌで発行されている。編集人はアミ・ギシャール。1954年度版(1953年についての内容)から始まり、それ以来、フランス語、ドイツ語、英語の3カ国版で発行されており、インターナショナルで権威のある自動車年鑑として継続して発行されてきた。

Text:岡田邦雄/Photo:服部佳洋/カーマガジン455号(2016年5月号)より転載

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