様々な断片から自動車の広大な世界を管見するこのコーナー。今回は、フェラーリの最初の一歩にまつわるエピソードを紹介したい。エンツォが、フェラーリの1号車を送り出したのは49歳の壮年の時だった。
新連載:最初の優勝
1997年の初夏に、イタリア・ローマを中心としたフェラーリの50周年記念イベントが開催された。ちょうどその時、幸運なことに、私はフェラーリ250GTルッソを愛用している頃だったので、この歴史的なイベントに参加するという、またとない機会を得た。初日の夕刻に、美術館のテラスでアペリチフから始まったパーティでは、ポール・フレールやジョン・サーティスら歴史的人物と親しく杯を交わす機会にも恵まれた。まるで、夢のなかで1週間を過ごすような体験だったが、あの時から20年が過ぎようとしている今では、もう完全に夢のなかでの出来事になってしまった。
フェラーリ50周年記念式典の参加者に配布されたブックレットは最初のフェラーリたる125Sのローマでの勝利までの詳細な記録だった。ノスタルジックな思い出に満ちた1冊。私が保持しているのは1000冊の限定版の30番だ。
それにしても、1947年からの50周年というのがいささか腑に落ちなかった。
エンツォ・フェラーリが生まれ育ったイタリア・モデナに帰って、スクーデリア・フェラーリを創立したのは1929年暮のこと。エンツォ31歳の時だった。
エンツォのモデナの工場では、アルファロメオP3に独自の改良を加えたり、前後にエンジンを搭載したビモトーレを開発していた。また、戦後に大活躍することになるアルファロメオ・アルフェッタ158の開発と制作もモデナで行なわれている。だから、何台かのアルファロメオはモデナ生まれであり、それだけの能力を持つ工場であった。
1939年にアルファロメオとエンツォは決別したが、エンツォの影響力を畏れたアルファロメオは、それから5年間はフェラーリと名乗って活動することに自粛を要請した。ゆえに1940年のミッレミリアでは、エンツォの工場から生み出されたクルマはフェラーリと名乗りを挙げることなく、アウト・アヴィオ・コストルツィオーネ815と名付けられた。アルフェッタ158と同じく排気量1500ccで、8気筒を意味するネーミングだ。2台が用意されてミッレミリアではトップを走っていたがリタイアに終わった。レース参戦と併せて、エンツォは815の生産化を企て、カタログまで用意したといわれる。
しかし戦争が始まったことで815の開発は終わる。戦時下の状況では、フェラーリにはクルマの生産が許されず、工作機械を製作することになったためだ。この時、スクーデリアの一員として優勝の回数こそ少ないが、堅実なレース運びで常に上位でフィニッシュしていたフランク・コルテーゼがフェラーリの工作機械のセールスを担当していた。戦争が終わってしばらく経った或る日、コルテーゼが工作機械の注文書を抱えてマラネロの工場に戻ると、エンツォから「もう、工作機械の注文は取ってこなくてもいいんだ」と言われた。フェラーリが復活した日だった。