オースチン・セブン/ミニを肴に文明と文化というやや大きなお話【自動車型録美術館】第8回

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オースチン・セブン/AUSTIN SEVEN

ミニを肴に、文明と文化というやや大きな話になってしまいました。

●サイズ(縦×横)210mm×275mm ●全16ページ

文明の利器

文明の利器、という言葉があります。クルマそのものが文明の利器として誕生しているのですが、なかでも、ミニや2CV、そしてビートルは、文明の利器と呼ぶにふさわしい存在のような気がします。

文明の利器、すなわち道具系のものは、より優れた道具が生まれると、その役割を終える運命にあります。最近では携帯電話やカセットテープ、ベータやVHSなどの変遷から、そのことが痛感されるのです。
わたしが現在暮らしている沖縄では、実によくミニに遭遇します。東京などに較べると圧倒的に輸入車の少ない沖縄で、もちろん現代によみがえった新しいミニも多いのですが、驚くほどよく見かけるのが、クラシックミニなのです。

文化としてのミニ

このことは、実用車として生を受けたミニが、既に道具を超えて文化の域に達しているからだと思っています。今回採りあげるのは、ミニが誕生した時のカタログです。優れた道具であることを印象付ける、わかりやすい構成になっています。そう、文明的なものは、誰にでもわかりやすくなければいけないのです。

本来、道具としての使いやすさや優位性を伝えるためのツールだったミニのカタログも、もはや文明的な伝達者としての役割は終えています。実車のミニと同様、このカタログも充分、文化的存在になっているのではないでしょうか。

質実剛健な実用車のカタログも、またたのしいものです

ミニが登場した時のカタログは、どのページを開いても、ただひたすらミニの道具としての優位性や効能を訴えているのが特徴です。文化的存在であるべきスポーツカーやラグジュアリーカーのカタログにみられるような、情緒性は一切感じられません。その潔さ、カタログからして、ミニは実にミニらしいのです。絵画や彫刻などの文化的なものの価値の中核は、持つよろこびです。純粋な文化に使用価値はありません。道具を目指していたミニのカタログにも、持つ喜びを訴えたページはありません。用済み後は棄てられる運命にあったこのカタログ。今や眺めるたのしさに満ちていて、癒しの存在になっています。

Text:板谷熊太郎 /Kumataro ITAYA カー・マガジン460号(2016年10月号)より転載

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