1200年以上も昔、鑑真和上も越えた峠道
東大阪側(箱殿交差点)から2kmちょっとで現れる急勾配のカーブ。路面には幾筋ものブラックマークが残っている。
峠の頂上から奈良盆地側へ50mほど下ったところにある『友遊由』というカフェで、貴重な写真を見せていただいた。写っているのは店を切り盛りする北村由子さんと娘の和栄さん。和栄さんは昭和49年生まれというから、上の写真の背景に写っているのは、今から40年ほど昔の暗峠である。
そのころの暗峠は、江戸時代に作られた石畳を除けば全線未舗装の砂利道で、拡幅部分も少なかったため、クルマ同士のすれ違いにはずいぶん難儀していたらしい。
路面の傾き具合はこんな感じ。小石をかましておかないと、ペットボトルはずるずる滑り落ちてしまう。
「家からクルマで出かける時、神棚に向かって『対向車が来ませんように』ってお祈りしたものですよ」と由子さんは笑っていた。
当時は阪奈道路が有料だったこともあり、交通量は意外と多く、対向車に出会わず走りきれることは滅多になかった。この峠でのルールは台数の少ない方が道を譲るというもの。すれ違いのできる場所までバックしている最中、路肩や溝にタイヤを落としてしまうと、対向車のドライバーが降りてきて、みんなで助けてくれたという。
急坂の次に現れるのがこの分岐。左の狭い道が国道なので、ここで登頂を断念してしまうクルマも多いという。
棚田や段々畑ののどかな風景が広がり、眼下に奈良盆地や大阪平野を一望する暗峠での暮らしだが、当然ながら日常の不便は相当あったらしい。まず問題となったのが子どもたちの通学。小学校は急坂を4kmも下った先にあり、朝は集団登校で歩いて通うものの、帰りはクルマでの迎えが不可欠。友達と自転車で遊ぶようになっても、自宅の近所は急坂ばかりで乗れる場所がないため、放課後も麓まで遊びに行き、帰りは親が軽トラやワゴン車で迎えに行かなければならなかった。なにしろ暗峠は、頂上まで漕ぎ切ることが勲章となるチャリダーの聖地なのである!
峠への入り口も道幅が狭く、一部は一方通行になっている。ハイカーも多いので運転は慎重に!
狭く、曲がりくねった暗峠は過去に何度か大規模な改修も計画されたが、勾配のきつさや山麓部に住宅が密集しているせいもあって、その都度立ち消えになっていった。そのうち阪奈道路が無料開放され、さらに峠の下に第二阪奈道路のトンネルも貫通すると、奈良と大阪を結ぶ道路としての重要性はほとんどなくなってしまう。今回の取材でも、地元のクルマ以外で見かけたのは、宅配便くらいのもの。こうして古代の峠越えをそのままトレースした国道が今の時代まで生き残ることになったのだ。
朱雀門のほか大極殿院も復元された平城京跡。無料駐車場があり見学も自由。
数ある日本の峠のなかでも、この暗峠の歴史は相当に古い。天平勝宝4年(752年)、苦難の末に日本へと辿り着いた鑑真和上、さらには、同じ年に東大寺の大仏開眼導師をつとめたインドの高僧・菩ぼ だいせんな提僊那も奈良街道・暗越を通って平城京に入ったと伝えられている。その同じ道筋を今もクルマでたどれるのは感無量だが、くれぐれも対向車とのすれ違いには注意していただきたい。
150年近い歴史をもつ太田酒造。店の前を通っているのは、かつての奈良街道・竜田越の道(国道25号の旧道)である。