おそらく日本で一番低いシーサイドの峠道
わずか標高62mにも関わらず、国土地理院の地形図にも記されている堀切峠。クルマで走ると峠であることを意識する間もなく通り過ぎてしまいそうだが、徒歩で街道を行き来していた人には、とても険しい登りと下りの連続だった。
峠の脇に立つ宮崎交通のバス停。初代社長の岩切氏は「宮崎観光の父」とも呼ばれた。
堀切峠の標高は62m。峠の名前を持ちながら、これほど標高の低い場所は全国でも相当に珍しいのではないだろうか。
自然の地形でも、人工の建造物でも、日本一高い……はわりと簡単に判明する。ところが、日本一低い……となると、いろいろ条件が付いたりして断言しづらいのだ。あえていうなら、「国土地理院の地形図に記載のある峠のなかで、おそらく日本一標高が低いと思われる」のが、この堀切峠である。 堀切峠のある国道220号は、宮崎市街から南の大隅半島へと続く道で、このうち風光明媚な日南海岸を抜けていく区間はかつて鵜戸街道と呼ばれていた。崇神天皇(3-4世紀初めと推定)の時代に創建されたとされる神秘的な洞窟の社、鵜戸神宮を詣でる人が盛んに行き来した道である。
鬼の洗濯板は、硬い砂岩と柔らかい泥岩の積み重なった地層が生んだ不思議な風景。
いまでこそ爽快な国道220号だが、かつての鵜戸街道はかなりの険路だったらしい。鵜戸神宮までの道のりは「日向七浦七峠」と呼ばれ、花嫁を乗せた馬を花婿が曳いて鵜戸参りに向かう様子を歌った宮崎民謡『シャンシャン馬道中唄』にも「七坂七曲がり」という歌詞が出てくる。
このあたりは山が海岸線ぎりぎりに迫っているため、入り江の前後には切り立った断崖絶壁がそびえ立っている。波打ち際に沿って進むことはできず、登っては下り、下っては登る……を果てしなく繰り返す道だったのだ。
堀切峠から道の駅フェニックスまでは断崖絶壁の上をゆく道。
江戸時代、鵜戸街道の南半分は飫肥(おび)藩領に属していたが、飫肥の殿様ですら古くからあるこの街道を参勤交代には使っていなかった。油津の港から舟で日向灘を渡ったり、標高300m前後の山中を抜けていく飫肥街道(現在の県道27/28号)で宮崎へと向かっていたという。堀切峠もこうした険しい「七峠」のひとつ。たとえ標高が62mしかなくても、昔の旅人にとっては、目の前に立ちはだかる険しい峠道だったに違いない。
青島バイパスのトンネルができる前の道、国道220号・旧道の元となる自動車道が、宮崎から約15km南の内浦港まで通じたのは大正時代初めのこと。このとき峠の周辺を切り通しで開削したことから、堀切峠の名が付いたという。
御崎馬(日本在来馬の一種)がのんびりと草を食む都井岬。