アルファ・ロメオ製ルノー4?
2021年はルノー4(キャトル)の誕生60周年である。人間でいえば還暦だ。シトロエン2CVとともに第二次大戦後フランスを代表する大衆車であるルノー4は1961年にデビュー。31年後の1992年までに造られるロングセラーモデルで、約813万台が世界に送り出された。
ルノー4のファンイベントとしては近年、フランスのトゥネー・サーキットを舞台にした「4Lアンテルナシォナル」が有名である(4Lとは正式名称にちなんだフランスでの愛称)。この催し、メーカーや専門誌「4Lマガジン」のサポートを獲得できたこともあって順調に運営されていた。イタリアを含め周辺各国からの参加も少なくなかった。
2021年はアニバーサリー・イヤーということで、年初からとくに気合を入れて準備が進められていた。だが、新型コロナウィルスの規制により、開催約1ヶ月前の6月になって開催が断念された。筆者も2回取材して、さまざまな知己を得ることができたので、彼らの落胆ぶりが偲ばれた。
いっぽう隣国イタリアでは、独自にルノー4の60周年祭を企画していた人物がいた。中部トスカーナ州で古いフランス車のパーツ販売店「デ・マルコ・パーツ」を営むマッシモ・デ・マルコ氏である。
イタリア屈指のクリスタル・ガラス生産地コッレ・ヴァル・デルサに近いメンサネッロを舞台にした、その名も「イタリアン・ルノー4フェスティバル」だ。ルノー4はフランス車でありながら、イタリアでも長年愛されてきた。
理由の第一はルノーというブランド自体が、オペルなどと同様にポピュラーブランドであったことが背景にある。第二は、ルノー4のように巨大テールゲートを持った大衆車が当時イタリアには少なく、人々の間で貨客兼用車として重宝がられたことがある。例として、筆者が住むシエナの花店では、ボロボロのルノー4を運搬車としてつい数年前まで使っていた。
歴史をひもとくと、さら面白い事実がわかってくる。かつてルノーはアルファ・ロメオと提携関係にあった。当時は両社とも公営企業。交渉のまとまりは早かった。その結果、ルノー4は1962年から1964年までアルファ・ロメオの南部ポミリアーノ・ダルコ工場でも組立生産された。
1962年の統計によると、イタリアでは10,686台のルノー4が販売され、ルノーをフィアット、アルファ・ロメオに次ぐ第3位ブランドに押し上げる原動力となった(データ出典:パノラマ誌電子版 2019年5月29日配信記事)。
つまりルノー4は、“フランス車であって、限りなくフランス車ではない”のである。
60年後も色褪せない魅力
イタリアン・ルノー4フェスティバルは、2021年9月17日から19日まで3日間にわたって開催された。2日目である土曜日、会場には65名のルノー4ファンが集結した。参加者のなかには、前述の4Lアンテルナシォナルまで遠征経験がある人も少なくなかった。
当日はまだ夏の余韻のような陽光が差し、その証拠に農園民宿のプールでは、子どもたちが果敢に飛び込みを繰り返していた。
集まったルノー4にはどれもエアコンは装備されていない。4人乗車で到着した参加者に「暑くないですか?」と筆者が問うと、「これがあるから平気さ」と、フロントウィンドー下の換気フラップをパタパタさせて笑った。
キャンバスルーフが新しいクルマが多い。聞けば「ルノー・トゥインゴのものを流用できるんだよ」とあるオーナーが教えてくれた。同様にトゥインゴの運転席&助手席シートを装着したクルマも2台ほど確認できた。実質的な後継車が役立つとは。トゥインゴは親孝行である。
その日のクライマックスは、荘園脇の草地を使ったジムカーナだった。前後ともトーションバーのルノー4は、かなり大胆なロールを伴いながらも、破綻を見せず果敢に乗り越えてゆく。それでもリバース2回を含むコースはそれなりに難易度が高く、境界を示すために置かれたタイヤを蹴散らしてしまうエントラントが続出した。
そうしたなか、フランスのリヨンから遠来したエルベ氏は、ルノー4の故郷で鍛えた小気味良いステアリング&シフト操作で難なくクリア。イタリア人たちから大喝采を浴びていた。沿道を走る観光客も、ついスピードを緩め、缶詰のようなクルマたちが演じる運動会に見入ってしまっている。
60年前の大衆車が今なお放つファン・トゥ・ドライブとオーラを再認識した、夏の終わりの週末だった。
文と写真 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
動画 大矢アキオAkio Lorenzo OYA/大矢麻里 Mari OYA