元首相のお膝元から会津へ抜ける険しい峠道
県境のトンネルの前後には大小50あまりのスノーシェッドが続く。
越後と会津を結ぶ歴史ある街道ながら、近年まで自動車での行き来ができなかった六十里越。スノーシェッドの連続する険しい峠道を走れば、「一里の道を十里に比す……」という、昔の旅人の気分がたっぷりと味わえる。
戊辰戦争で名を馳せた長岡藩家老・河井継之助。奥会津の只見町はその終焉の地となった。
国内第3位の貯水量をもつ田子倉ダムの脇を抜け、新潟県の中越地方と福島県の奥会津を結ぶ国道252号。その山深い県境を越えていく峠が六十里越である。
実は「六十里越」の名を持つ道は山形県にもあり、庄内平野や山形盆地から出羽三山へと向かう道が古くから六十里越街道と呼ばれてきた。現在、その道筋をなぞっているのは国道112号の旧道。出羽三山へと続く参拝路の行程が昔の中国の距離単位でほぼ60里(約40km弱)だったことから六十里越街道と呼ばれるようになったといわれる。
六十里越の前後はスノーシェッドの連続。国内有数の豪雪地帯だけに、夏の間も雪解け水が外壁を流れ落ちていく。
一方、こちらの六十里越は、それぞれの登り口にあるふたつの集落、大白川と田子倉(このうち田子倉集落はダムの完成により水没)の間が6里(約24km)の道のり。「一里を十里に比す」ほど険しい峠道だったことから六十里越の名が付いたのである。
新潟側から峠を目指して走って行くと、JR只見線の大白川駅を過ぎたあたりから本格的な山道となり、沢筋ごとにタイトターンを繰り返しながら、コンクリート製のスノーシェッドを次々とくぐり抜けていく。その出入り口に掲げられたプレートを見ると、大雪崩沢に小雪崩沢、石滝沢に七曲……と雪深さや地形の険しさを物語るものばかり。「よくもまぁ、こんな山奥に道を切り開いたものだ」とあきれるような道なのだ。
田子倉ダムの直下、只見ダムの両岸をつないでいた橋は2011年の水害で流失。JR只見線の只見-会津川口間も3か所で橋梁が流されてしまい、現在でもバスによる代行運転が続いている。
国道252号が六十里越トンネルの完成により全線開通したのは昭和48年(1973年)のことである。それは田子倉ダムができ上がってから10年以上も後のことなので(発電所も含めたダムの完成は1960年)、ダム建設のために計画された道ではない。「では、なぜ?」という疑問が湧いてくるのだが、ピークの六十里越トンネルを抜け、田子倉湖を眼下に見下ろす展望台に立つ石碑を見ると、その疑問はたちまち氷解した。
『会越の扉開く……』と記された開道記念碑の揮毫者は故・田中角栄氏。六十里越の新潟側は角栄氏の後援団体・越山会の地盤。10年の歳月と110億円の工費を費やした六十里越の開通式には当時の首相主席秘書も参列している。
国道289号・八十里越は分断国道。2013年頃の開通を予定していたが、こちらも集中豪雨被害により全線開通のめどはまったく立っていない。