【知られざるクルマ】 Vol.2 アウディ・クワトロの源流となった4輪駆動車、「VWイルティス」

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誰もが知る有名なメーカーが出していた「知られざるクルマ」をご紹介する新連載。第1回は、ほぼ知名度がない一台、「プジョー P4」でスタートした。その記事末で予告したとおり、第2回は、アウディがフルタイム4WD「クワトロ」を開発する契機を生んだクルマ、「フォルクスワーゲン(VW)イルティス」をお送りする。

車名はフォルクスワーゲンだが、開発はアウディで行われた

アウディといえばフルタイム4WDの「クワトロ」のイメージが強い。生産車で初めてその名を冠したのは、1980年。それまでの4輪駆動といえば道無き道や悪路を走破するためだったのだが、クワトロは4輪を駆動することで効率よくパワーをオンロード路面に伝えるという、画期的な考え方だった。現在のハイパフォーマンスカーの多くがフルタイム4WDを採用していることからも、先見の明が伺える。

しかし、クワトロは、一朝一夕で急に生み出されたものではなかった。その源流には、とあるクルマの存在があった。そのクルマが、「VW タイプ183・イルティス(Iltis)」である。VWの名を冠しているが、開発はインゴルシュタット……つまりアウディで行われていた。

イルティスの独特のフォルムは、2017mmという短いホイールベースが生み出している。

1970年代末に、イルティスはフィンランドの氷雪路で試験に供された。そこでイルティスが見せた安定した走行性能は大いに注目され、アウディの開発者だったヨルグ・ベンジンガーに「このシステムをオンロード用の乗用車に搭載してみたらどうなのか」というインスピレーションを生ませたのである。そしてベンジンガーは、当時のR&D責任者だったフェルディナンド・ピエヒに、それを提案。承認は早急に行われ、アウディ80にイルティスのドライブトレーンを組み込んだテストカーが開発されることになった。その後、このプロジェクトがクワトロの登場につながっていったのは、ご想像の通りである。

1980年頃。イルティスと、発売前の最終テストを行うアウディ・クワトロ。

イルティスの前身、「DKW・ムンガ」

1956年から1968年までに約5万台が製造されたDKW・ムンガ。

しかしさらに元をたどると、イルティスはVWがゼロから設計したクルマではなかった。イルティスのベースは、アウディの始祖メーカー・アウトウニオンの “フォー・シルバー・リングス” のひとつ「DKW(デーカーヴェー)」が開発した4輪駆動車「ムンガ(Munga)」だった。

1956年に登場したムンガは、その名前……Mehrzweck UNiversalGeländewagenmit Allradantrieb(全輪駆動多目的ユニバーサルオフローダー)の通り高い悪路走破性を示し、西ドイツ軍、NATOなどが採用したほか、民生仕様はドイツ(当時は西ドイツ)のみならず南米、南アフリカなどでも人気を博した。

その頃、欧州各国ではヨーロッパ独自の「ジープ」型多目的車、その名も「ヨーロッパ・ジープ」の開発を企画していた。しかし開発・調達には時間がかかることから、ドイツでは第二次世界大戦で活躍した「キューベルワーゲン」を発展させたような、簡便ながらも耐久性のある軍用モデル「タイプ(Typ)181」を暫定的に導入。ヨーロッパ・ジープ計画実現までの “つなぎ” をすることになった。

ヨーロッパ・ジープ計画達成までの間、暫定的に導入された「VW・タイプ181」。こちらは北米向け民生モデルの「Thing」。仕向け地によって英国で「Trekker」、「Safari」など様々な名称を持っていた。

一方、ムンガは1968年に製造を終えたが、1965年にアウトウニオンを買収していたVWは、VW傘下だったアウディに、ムンガをベースにした4輪駆動車の開発を継続させた。ボディを近代的な装いに改め、エンジンはムンガの1L 2スト3気筒から、VWの1.7L 4スト4気筒OHCに換装。ギアボックスやデフハウジング、クラッチなどはアウディ100用をベースに再構築された。そして1978年、VWブランドから「タイプ183・イルティス」として登場することになった。

イルティスの透視図。エンジンは水冷 直4OHC 1716cc。軍用に供するという性格上、質が悪い燃料の使用も考え8.2:1という低い圧縮比から最高出力75ps/5500rpmを発生した。ボンバルディア製モデルの末期には、ターボディーゼルユニットも搭載できた。

パリダカでも優勝したイルティス

軍用仕様のイルティス。基本的には、鋼製のドアやルーフを持たない。

ここで話は、先ほどの「ヨーロッパ・ジープ」に戻る。しかし結局ヨーロッパ・ジープ計画は頓挫してしまい、ドイツ軍はタイプ181に変わる車両を調達しなければならなくなった。そして軍は各メーカーに後継モデル開発を依頼。VWはイルティスを、メルセデス・ベンツ・ゲレンデヴァーゲンを開発し、コンペにかけられることになった。

結果は前号でも伝えた通り、正式採用を勝ち取ったのはイルティスである。しかしVWがイルティスを作ったのは、1982年までの短い間だった。イルティスの生産終了によって、ようやくゲレンデヴァーゲンは「正式採用」の座に収まることができた。

しかしイルティスは、生産ラインをカナダのボンバルディア社に移管して生産を続け、1988年までに約5000台を製造。カナダ軍やベルギー軍で用いられた。

この黄土色のイルティスは民生モデルだが、カタログには、FRP製のドアやハードトップ・ボディサイドストライプなどを備えた仕様も掲載されていた。

VW製のイルティスは約9500台といわれ、そのうち約8800台が軍用だった。それ以外は民生用であるが、台数が多くないことがわかる。また、1980年のパリ・ダカール・ラリーには4台のイルティスが出場。137号車が総合優勝を達成したほか、残り3台が2位、4位、9位でゴールするという驚きの成績を残している。この時9位でフィニッシュした個体には、アウディ製の直5エンジンが搭載されていたという。

ちなみにイルティスとは、ドイツ語でヨーロッパケナガイタチ(英語ではPolecat)を意味している。

イルティスは1980年のパリ・ダカール・ラリーに出場、総合優勝を成し遂げた。

イルティスにはシトロエン版「C44」もあった

イルティスにシトロエンのエンジンを載せたC44。プジョーP4とのコンペに破れた。

このイルティスには、なんと「シトロエン版」が存在することは、前回の「プジョーP4」の紹介記事で書いた。

登場の経緯をおさらいすると、フランス陸軍が自国内メーカーに「ウイリスジープ」とオチキスがジープをライセンス生産した「オチキスM201」の代替車開発を命じた際、大手3社は独自で車両開発は行わず、海外メーカーの車両に自前のエンジンを積んで対応した。その際ルノー・サヴィエムグループは、「フィアット・カンパニョーラ」を「TRM500」として、プジョーはメルセデス・ベンツ のゲレンデヴァーゲン版を「P4」で、シトロエンはこのイルティスを「C44」として用意した、という話である。

イルティスには、「CX」の「アテナ」「レフレクス」などに搭載された2L OHCユニットを搭載。グリルには小さなダブルシェブロンが輝き、シトロエンのクルマだということを静かに主張していた。しかしフランス陸軍が選んだのはプジョー P4だったのも前回記載したとおりである。

その後シトロエンは、このC44で1981年と1984年のパリ・ダカール・ラリーに挑戦しているが、前者は総合42位、後者は完走することなく競技を終えている。

Photo : Audi, and Volkswagen /Izuru Endo

この記事を書いた人

遠藤イヅル

1971年生まれ。東京都在住。小さい頃からカーデザイナーに憧れ、文系大学を卒業するもカーデザイン専門学校に再入学。自動車メーカー系レース部門の会社でカーデザイナー/モデラーとして勤務。その後数社でデザイナー/ディレクターとして働き、独立してイラストレーター/ライターとなった。現在自動車雑誌、男性誌などで多数連載を持つ。イラストは基本的にアナログで、デザイナー時代に愛用したコピックマーカーを用いる。自動車全般に膨大な知識を持つが、中でも大衆車、実用車、商用車を好み、フランス車には特に詳しい。

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